ふわっ 初夏の香りをはらんだ薫風が、少女の部屋を滑るように駆ける。 簡素な部屋。 不格好な羊のぬいぐるみ、可愛らしい高校の制服、風変わりな衣装が数点・・・そして、 机の上に積み上げられた紙の山。 それだけが、この部屋を特徴づけていた。 ふわぁっ・・・ いたずらな風が紙を揺らす。 すぅっ 音も無く、数枚の紙が部屋の中心に舞い降りる。 大き目の紙。 絵? いや、この紙の上に鮮やかな色彩は無い。 そのかわり、かなり大きめの文字がどの紙の上にも記されている。 『折原 浩平』 机の上に残された紙の山の頂上に、ひときわ大きく書かれている文字だ。 ふぉっ 軽い突風がその紙をめくる。 『おりはら こうへい』 そう書かれた紙を、風が運ぶ。 『二年生で、演劇部員』 風が吹く。 『このまえ、はいってくれたの』 風が吹く。 『ちがう』 風が吹く。 『ちがうの!』 風が吹く。 『しらないの?』 風は吹き続け、次々と紙の乱舞を促していった。 『おぼえてないの?』 だが、徐々におさまり始めた風は、その歩みを止めた。 『いたよ』 そして紙の山も、 『いたの!』 と、ひときわ大きく書かれた紙を晒して崩れるのを止めた。 ひゅっ 最後の一吹きがその紙を揺らした・・・が、 かさかさかさ・・・ 何かにひっかかったかのように、その紙は重力に従う事を拒否した。 見ると、 かさっ・・・ 下の紙の端がめくりあがり、上の紙を支えているようだった。紙の一辺に刻まれている ぎざぎざが、その働きを助長している。 この、全ての紙に刻まれているぎざぎざは、かつてこの紙の束がスケッチブックとして 機能していた事を示していた。・・・だが、頂上の紙を引き止めている下の紙は、何故か 他の紙よりも起伏に富んでいるようだ。 ふぅっ・・・ 業を煮やした一陣の風が、 ひゅおぉっ・・・ 一枚の紙をついに舞い上がらせ、 ふわっ その下の紙に書かれている文字を、あらわにした。 『折原 浩平』 先程の紙に書かれていたものと同じ名前が、そこにはあった。 違うところは・・・ 紙いっぱいに書かれている事 精いっぱい丁寧に書かれている事 そして・・・ サインペンの文字が所々にじんでいる事と、 まるで抱きかかえられていたかのように歪み、折り曲がっている事だ。 その文字のにじみと紙の歪みは、今まで書かれていたどんな言葉よりも持ち主の心を雄 弁に語っていた。 泣いていたのだろう。 スケッチブックを抱きしめて、泣いていたのだろう。 愛しい人の名前を書いたスケッチブック。 それを抱きしめ、 想いを抱きしめ、 ずっと泣いていたのだろう。 言葉を発する事の出来ない少女は、言葉を捨てる事を選ばなかった。その代わり、言葉 よりも雄弁な『想い』を以って人に接した。 より多くの人に、より多くの想いを伝えるために少女は努力を繰り返す。 その心が届いているかどうか、なんて事は考えずに。 何故? なぜ? 分かっていたのだ、少女は。 『自分には、それしかない』って事に。 悩もうと、怨もうと、嘆こうと、現実は自分の望むようには転がってくれないんだって 事を。 ・・・だから、伝える。 誤解なんて恐れない、 「次がある」なんて甘えない。 なぜなら、 想いを伝えたい人が、いつまでもそこにいるとは・・・限らないのだから。 「・・・いっしゅうかんだぞっ!」 いなくなってしまうかも、しれないのだから・・・ とんとんとん・・・ 少女が階段を上ってくる たんたんたん・・・ もう一つ、少し遅れて響く足音。 この部屋の惨状を見て、この部屋の主はショックを受けるだろう。 何しろ、まとめておこうと思ったスケッチブックの紙が、部屋一面を覆い尽くす白い絨 毯と化していたのだから。いつもしている作業だからと油断したのだろうが、窓を開け っ放しにしてしまう、なんて初歩的なミスをしてしまう所が如何にも彼女らしい。 彼女の楽しいはずの一日は、不幸にも大掃除で始まる事になるが・・・それもまた、楽し い日常の一ページになる。 そんな日常を、彼女は手に入れたのだ。 それは、声を持たない彼女が、声のかわりに手に入れたもの。 強い想いが紡ぎだした、たくさん幸せの中の・・・ひとつ。 がちゃっ 「!」 部屋のドアを開けたとたん、少女は目の前の光景に驚いて、 はうぅぅ〜 次第に泣き顔になりながらその場にへたり込む。そんな彼女の頭を、くしゃくしゃと撫 でる手があった。 「ったく・・・何やってんだ、澪。」 FIN