(Leaf Visual Novel Series vol.1) "SIZUKU" Another Side Story

雫・続章

「〜紅(あか)〜」

Written by -->MURAKUMO AMENO HOME PAGE -->SEIRYU-OU KYUUDEN

Original Works "SIZUKU" Copyright 1996 Leaf/Aquaplus co. allrights reserved


 「はあ、はあ、はあ、」
タンタンタンタン
 息が弾む。
「はあ、はあ、はあ、」
タンタンタンタン
 足が重くなる。
「はあ、はあ、はあ、」
タンタンタンタン・・・
 コンクリートの階段の一段一段を、僕のスニーカーが叩き続ける。
 その単調な音は僕の意識をぼんやりとかすませ、己を突き動かす衝動と、それを受けて
 戸惑う理性の葛藤をうながした。
 「何故、僕は走っている。」
 二階を過ぎて、
 「分からない、けど・・・あの感覚は・・・もしかしたら」、
 三階を越えて、
 「・・・そうだ、居るかもしれないんだ!そこに・・・彼女が!!」
 屋上への扉に手をかけて、
 「そこに・・・そこに居るのかい?」
 重い金属の扉を力の限り引いた。
 外から吹き込んでくる風は、突風となって僕を襲った後、背中で渦を巻いて消えた。そ
 んな狂暴な風につぶった目を開くと同時に、僕はその人の名を叫んだ。
「瑠璃子さん!!」
 風の残滓の向こう側、
 あの時と同じように世界を紅に染める夕日の中、金網を見つめていた少女はゆっくりと
 振り返って・・・
 ふわり、と消えた。
 ・・・いや、
 元々そこには、誰もいなかったのだ。
「・・・・・・・・・」
 激しい虚脱感と失望に背中を押され、赤に染まりきった屋上に歩み出た僕は、瑠璃子さ
 んの立っていた所へと歩を進めた。
「・・・やっぱり・・・・・・そうだよね・・・」
 かって瑠璃子さんが助けを求めて、僕に向かって電波を飛ばしていた場所。
 僕はそこに立ち尽くしたまま、かすかに歪み始めた世界を見つめていた。だが、今僕の
 視界を歪んでいるのは、狂気や電波のせいではない。この歪みは・・・
 僕の、涙。
 無造作に金網をつかんだ時、涙が雫となって零れ落ちる。
 握った金網は僕の手から無情に体温を奪い、その冷たさが突き刺すような痛みとなるま
 で、そんなに時間はかからなかった。
「いる訳無いんだよ・・・だって・・・瑠璃子さんは・・・」
 脳裏に無機質な病室が浮かびあがる。
「月島さんと・・・お兄さんと、一緒なんだから・・・」
 そこに眠っている二人の男女・・・それは、心の壊れた月島さんと・・・先輩と一緒に居る事
 を望んだ、瑠璃子さんだった。
 そして、僕の口がかすかな鳴咽を紡ぎ出す。



 生徒玄関。
 僕はここでいつものように上靴を靴箱に収め、外靴のスニーカーの紐を結び直していた。
 新しいクラスになって、多少は話せる友達も出来ていたが、その友達の中にはあいにく
 僕のような万年帰宅部の人間は居なかった。だから、いつも帰りは一人きりになってし
 まう。
 少し前までの僕ならそんな状況を喜んで受け入れていただろうが・・・今となっては、少
 しさびしい気もしてくる。
「これでよし、」
 靴紐を結び終え、鞄に手をかけんとしたその時、
・・・チリッ・・・
 僕はかすかな電波を感じた。
「!?」
 その電波を感じた瞬間、僕は弾かれたかのように顔を上げた。
・・・チリッ・・・チリッ・・・
「!・・・そんな・・・」
 その電波の持つ暖かさと優しさに、僕は驚愕した。
 何故なら、この電波を持つ人は・・・一人しかいないからだ。
 「・・・そんなはずはない・・・」
 理性のそんなささやきを無視するかのように、僕はその電波の持ち主の名を・・・ありえ
 ないはずのその名をつぶやいた。
「る・・・瑠璃・・・子・・・さん?」
 馬鹿な。
 こんな所に彼女が居るはずが無い。
 なぜなら彼女は、今も病院のベッドで眠り続けているからだ。
 ・・・僕は、良く知っている。
 彼女が僕の事を想ってくれていた事も、それと同じぐらい、お兄さんを慕っていた事も。
 だから、
 彼女が二度とこの世界に戻ってこない事も・・・誰よりも良く分かっていたはずだった
 ・・・が、
チリチリチリチリ・・・
「・・・やっぱり、間違い無い!」
 この電波の感じは、間違い無く瑠璃子さんのものだった。それを確信した僕は先刻の冷
 静な思考を投げ捨て、外靴のスニーカーのままで廊下を駆け出した。
「そんな・・・でも、あの電波・・・まさか!」
 僕は全速力で廊下を駆け抜けた。この電波が流れてくる方向に向かって、そして、その
 先にある、二人が出会った思い出の場所へと向かって・・・



 でも、
 そこに彼女は居なかった。
 あったのは、あの時と同じ夕日と、風と、戻らない時の残像。
 哀しく切ない記憶。
 あの事件から半年が過ぎた。
 季節はうつろい、僕は三年生になって、あの時の全てが過去の物になろうとしているの
 に・・・僕の中の想いは消えるどころかますます強くなってくる。
「・・・・・・」
 絶え間無く流れ続ける涙にとまどいを覚え、胸に湧き上がる切ない気持ちと、未だ何か
 を振り切れない自分への絶望にさいなまれながら、僕は、泣いた。
 果てしなく赤い、あの時と同じ夕日の中で。



「雫・続章〜紅(あか)〜」



 息が弾む。
「まわせまわせーっ!」
「こっちだ!」
 視界がめまぐるしく移動を続け、視線は茶色の球体の行方を追う。
「長瀬っ!」
 僕を呼ぶ声と共にボールが僕に向かって飛んでくる。僕はそれにむかって手を伸ばし、
 がっしりと両手で抱え込んだ。
「・・・!ふぅっ」
 一瞬、乱れた息を飲み込む。
 視線を移し、
 体勢を整え、
 僕が今まさに敵のゴールめがけてボールを投げようとしたその時、
ピピイィーーーッ
 チーム交代のホイッスルが体育館じゅうに響いた。
「よーし交代だっ!次、AチームとCチーム!」
 先生の交代を促す声が響く中、僕は大きなため息を吐いて、バスケットボールを次のチ
 ームの人間に渡す。
「惜しかったな、長瀬。」
「・・・いや、仕方ないよ。」
 僕は苦笑しながら答える。
「駄目だな〜あそこで強引に投げちまえば良かったのに!」
「んな事してもノーカウントだよ。瀬田の奴ぁ融通きかねーからな。」
「そうそう。」
「今時、お堅い体育教師なんてはやんねーよなぁ。」
 何人ものクラスメートの言葉が投げかけられて来る。
 半年前の僕だったらこんな言葉の羅列にもただ空ろな笑いを浮かべるだけだったが、今
 の僕はそんな言葉の一つ一つに心から微笑む事が出来る。
「ふぅ・・・」
 仲間たちと共に体育館の壁に寄りかかった僕は、何気なく外を見た。

ふわっ

 無造作に開かれた窓から、数枚の花びらと共に、桜並木の鮮やかなフレッシュピンクが
 僕の視界に飛び込んできた。おそらく、後一週間もたたずにこの木々は、元どおりの広
 葉樹へともどってしまうだろう。勢い良く散る花びらはそれを示唆している。
 目の前に広がる幻想的な色彩の乱舞に、僕は一瞬時間を忘れた。
「・・・・・・・・・・・・・・・、」
 五分もたっただろうか?
 しばらくその美しさを見つめている内に、すっかり弾んでいた息も落ち着いたようだ。
 目の前では相変わらずバスケの紅白試合が繰り広げられ、応援や罵声がひっきりなしに
 飛び交っている。
「やっぱり、こういう騒がしい雰囲気には・・・慣れないな。」
 そうつぶやきながら、まるで桜並木の刹那的な美しさに誘われるかのように、僕は体育
 館の中をあてどなく歩きはじめる。



 昨日。
 結局気持ちが落ち着くまで屋上に居た僕は、その後もう一度瑠璃子さんに会いに行った。
 眠り続ける瑠璃子さんは相変わらず美しく、この世のものではない幻想的な雰囲気に満
 ちていた。
 「眠り姫」とは、この人の為にあるような言葉なのだろう・・・
 そう思いながら僕は、じっとその寝顔を見つめ続けた。
 電波で話しかけてみようか・・・
 そう思っては、その考えを振り捨てる。
 だめだ。
 きっと、優しい瑠璃子さんは応えてくれる・・・
 それじゃあ、駄目なんだ。
 それは、瑠璃子さんを苦しめ、困らせる事になるのだから。
 瑠璃子さんはお兄さんの為にこうなる事を選んだ。だから、僕がそれを邪魔してはいけ
 ない。
 分かってる。
 分かっている。
 だけど・・・
「・・・・・・・・・じゃあね、瑠璃子さん。」
 自分を突き動かしそうになる衝動を必死で押さえ、二人の眠る病室を後にする。
 ・・・僕は今迄、何回これを繰り返しただろう。そして、これからもこれを続けてしまう
 のだろうか・・・



 「・・・・・・!・・・!!」
 はっと気がつくと、僕は体育用具室の前に来ていた。後ろで行われている女子のバレー
 ボールの喧騒が、昨日の回想に浸っていた僕を現実に引き戻したらしい。
 体育館の中に面した用具室への扉は、バスケットボールとバレーボールの準備のために
 開け放たれていた。中に広がる飛び箱やマットは、僕にとっては忘れる事の出来ない風
 景を再現している。
 第二体育館体育用具室。
 ここは、僕が全てを知り、電波の才能に目覚めた場所。
 ・・・そして、瑠璃子さんと結ばれた場所だ。
「・・・いよ、瑠璃子さん・・・」
 意図せずに、涙がにじんでくる。
「苦しいよ、瑠璃子さん・・・」
 ・・・僕は、本当にあの日救われたのだろうか。
 凶器の扉を閉じて、世界にあふれる色彩を感じる事が出来るようになった今でもそう思
 う。
 だって、
 この世界には瑠璃子さんは居ないから。
 僕の全てが欲していた、あの瑠璃子さんが居ないから・・・たとえ、僕がこの世界で生き
 る事が彼女の願いであったとしても、僕は瑠璃子さんがいる世界の方を望んでしまう。
「僕も壊れてしまいたかった。」
 と思う自分が居ると言う事実が、何よりそれを証明していた。
 だが、
 壊れる事は許されない。
 僕が再び狂気の扉を開くと言う事は、瑠璃子さんの願いを裏切る事になるからだ。
 でも・・・

 瑠璃子さんに会いたい。
 その想いだけが膨れ上がる。
 瑠璃子さんに会いたい。
 瑠璃子さんに会いたい。
 瑠璃子さんに会いたい。瑠璃子さんに会いたい。瑠璃子さんに会いたい。瑠璃子さんに
 ・・・

「・・・だよ・・・」

 「!!」
 狂気の世界に陥りそうになった僕の意識が、急速に現実に戻ってきた。
 心臓は激しく胸を内側から叩き、呼吸はさっきのバスケの試合の時と比較にならないほ
 ど乱れている。
 再び流れ出す汗が、体操着のシャツを肌に貼り付かせていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁ・・・」
 まかり間違えば、今ここで電波を暴走させてしまったかもしれない、と言う事実に僕は
 恐怖した。
 しかし、
 今聞こえてきた、僕を狂気から救ってくれた声は・・・
「瑠璃子さん・・・?」
 昨日感じた電波も、確かに瑠璃子さんのものだった。あの優しく、暖かい電波は他の人
 には感じられないものだった。
 ・・・だが・・・
 だが、何かが違っている。
 今、僕は、僕を救ってくれたその声に微かな違和感を感じた。それが一体何なのかまで
 は分からないが、あえて言うならば・・・

 弱々しい。

 そう、遠いとか空ろだとかではなく、弱々しげなのだ。それこそ、他の人の思念の声に
 紛れてしまいそうなほどに。
「別人なのか・・・いや、でも・・・」
 頭が混乱してくる。
 再び入り込んでしまう。
 ・・・そう思った僕は胸に詰まった重い空気の塊をゆっくりとはき出し、冷静になって上
 の壁にかかっている時計を見上げた。
 10:42
 先程のチーム交代から十二、三分が過ぎようとしている。
「そろそろ、チーム交代の時間かな・・・」
 そう思って僕は、男子のバスケットコートに足を運ぼうとした。
 その瞬間。
「あ!危なーーーい!!」
「えっ?」
 声のする方向を見た時、
 僕の視界が白とも灰色ともつかない色で覆われた。
ばっちぃーーーん!!
 額の当たりにかなり強い衝撃。
 世界が回る。
 さらに、それから一瞬、間を置いて・・・
どんがらがっしゃあぁーーーん!!
 物と物とがぶつかり合うけたたましい音が僕の意識を埋め尽くす。ついで全身を襲う激
 痛。
 ・・・どうやら僕はバレーボールによる強烈な一撃で、体育用具室の中へ叩き込まれたら
 しい。
「あーあ、」
「いったそー・・・」
 何処か遠くから聞こえるかのような女子の声を聞きながら、僕は自分の意識が徐々に薄
 れてゆくのを感じていた。
「ごめんなさーいっ!大丈夫?」
 僕にボールをぶつけた張本人と目される少女の声が近づいて来る。
「せ・・・せめて一言、文句を言ってやる・・・」
 そう思って最後の気力を振り絞り、薄目を開けてその少女を見た僕は・・・驚きのあまり、
 一気に気力を失ってしまった。
 視界の端でひらめく長い髪を見ながら僕は、
「うぅ〜ん、見事な火の球スパイクだ・・・」
 意味不明の言葉をつぶやきながら闇の世界へと落ちていった。


               # # #


 「・・・気がついたかしら?」
 昼時に差し掛かった事を示す暖かい陽光の中、保険医の水無月先生の覗き込む顔が見え
 る。
 流れるような長い黒髪と眼鏡がトレードマークの水無月先生は、そのきつめの美人と言
 う容貌からとっつきにくい印象を受けるが、実際は生徒の個人的な相談も親身になって
 聞いてくれる、貴重な存在だ。
「あら、どうしたのぼーっとして。まだ頭が痛いの?」
「あ、いえ・・・痛みは無いです。」
「う〜ん、どうやら大丈夫みたいね。」
 先生は僕を見下ろしながらそう言った。
 どうやら僕はあのバレーボールの一撃によって気絶したらしく、今は保健室のベッドで
 寝かされているらしい。
 独特の消毒臭がつん、と鼻を刺激する。
「先生!長瀬君・・・気がついた?」
 純白のカーテンの向こうから誰かの声が聞こえる。僕は、その声に聞き覚えがあった。
「えぇ、今、気がついた所よ。」
「良かったぁ〜あたし、この年で人殺しになるかと思っちゃった!」
「・・・・・・」
 よりにもよってなんて不吉な事を言うんだ。
 まぁ、悪気があっていってる訳じゃないんだろうが・・・にしても、あのバレーボールの
 一撃は正直言って効いた。さすがに強烈な現役バレー部のスパイクは、僕を死に追いや
 らずとも近い世界に導いたらしい。
「こら、あんまり失礼な事言わないの!さっきから長瀬君、仏頂面してるわよ。」
「あっ、ご、ごめんなさいっ!!」
 そう言って謝りながらカーテンを開け、僕に頭を下げる。
 その美しく長い髪を持つ少女は、体育の時間からずっと付いていてくれたのだろう、体
 操服がとても良く似合っていた。
「あ、い、いやぁ・・・」
 その子と対面した僕は、一瞬、ひどく動揺してしまった。
 それを横目で見ながら、先生は赤のタートルネックの上にはおった白衣をひるがえし、
 自分の机に向かって歩いていった。
「新城さん、長瀬君に経緯を説明してあげなさい。」
 先生の背中ごしの言葉を聞いた新城さんが、ふいに下げた顔を上げる。
「あ、はいっ!あの・・・あのね、あたし、すぐに熱くなっちゃうんだ。だから、ほら、負
 けてたし、ねぇ、こう、力いっぱいばっちーんっ!てやっちゃったんだけどね、回転が
 かかっちゃって、狙いがこう・・・」
 新城さんもだいぶ動転しているらしく、普段の饒舌ぶりもどこかへ行ってしまったよう
 だ。その説明とともにあたふた動く両手が妙におかしい。
 僕はそんな様子の彼女を見て、思わず笑ってしまった。
 見ると、机で書類を書いていた水無月先生も、肩を揺らしながら小さな笑いをもらして
 いる。
「くくっ・・・いや、大丈夫・・・怒って、ないよ・・・」
 しばらくあたふたと言い訳を続けてきた新城さんは、僕が笑っている事にやっと気付き、
 僕の寝ているベッドの横で黙りこんでしまった。
「・・・・・・」
「・・・あ、ごめんごめん。別に馬鹿にした訳じゃないんだ。」
「・・・本当?」
「本当だよ。」
「・・・怒って・・・ない?」
「うん、もちろん。」
 しばらく上目遣いに僕をにらんでいた新城さんは、
 すとん、
 と手近な椅子に座ると、
「良かったぁ〜〜〜」
 と言って大きく息を吐いた。
 正直言って、僕は女の子の扱いが上手い訳ではない。
 だから、新城さんにあのままの体勢でいられると、非常に気まずい雰囲気になってしま
 うのは確実だ。
 彼女の明るくさっぱりした性格が、半年前のあの頃と変わっていなかった事に僕は感謝
 した。
「本当にどうしようかと思っちゃったんだ、叩いても引っ張ってもピクリともしないんだ
 もの。」
「はは・・・そ、そう・・・」
 僕は気絶している間、いったいどんな扱いを受けていたのだろうか・・・いや、想像する
 のはやめよう。
「だから、男子に頼んでここに運んでもらったんだけど・・・もう、みんな薄情なんだよ!
 男子は『大丈夫だ』しか言わないし、女子の保健委員の子なんて『気絶させたのは沙織
 でしょ』って言ってあたしに付き添いを押し付けちゃうし・・・」
 いちいち身振り手振りをまじえて説明してくれる。
「そりゃあ、まぁ・・・あのスパイクを打ったのはあたしだけど・・・だけど、別に長瀬君を狙
 って打った訳じゃないもの!これは完全な濡れ衣よ!難しい言葉で言うなら・・・えーっ
 と〜そうそう!付加暴力なのよ!!」
「・・・それを言うなら、不可抗力じゃないのかな。」
 あまりに見事なボケに、僕は思わずつっこんでしまう。
「え、あ・・・間違えちゃった。」
 ぺろっと舌を出す姿も、彼女のお茶目な性格をあらわしている。
 他の人がやると嫌味になるようなこのしぐさも、ごくごく自然に見えるのは、彼女の飾
 らない性格から来ているのだろう。



 新城沙織。
 半年前のあの事件の被害者の一人・・・もっとも、事件と僕に関する記憶は、彼女の中か
 らは完全に無くなっている。
 僕があの時、彼女の中から僕と事件に関する記憶の全てを電波で消し去っていたからだ。
 ・・・しかし、彼女の話し上手とくるくる変わる表情は、事件の情報を彼女から聞いた時
 から全く変わっていない。あの見事なまでのハイテンションぶりもしっかり健在だ。



「・・・な、なぁに?長瀬君。」
「えっ・・・あぁ、」
 どうやら、期せずして新城さんを見つめてしまっていたらしい。彼女の頬がぽおっと紅
 くなるのを見て、僕は苦笑した。
「ごめん、ちょっと考え事をしててね・・・」
「も、もう・・・あたしが必死で言い訳してるのに・・・これじゃぁ、何だかあたしだけバカみ
 たいじゃない!」
 苦笑が、安堵の笑いに変わってゆくのが自分でも分かる。
「そんな事ないよ。新城さんの話し方、とっも聞きやすいし・・・」
「えっやっぱそう思う?良く言われるんだぁ!」
 ぱっと新城さんの表情が明るくなる。
「それにしても・・・長瀬君って、意外と話しやすいんだね。」
「意外?どうして?」
 新城さんは、「えへへ」とはにかんだ笑いを浮かべながら言葉を続けた。
「だって長瀬君、いっつも一人で居るし、人と話す時も口数少ないし・・・なんて言うの?
 孤独・・・かなぁ?とにかくそんな感じがして、話しかけづらいんだもの。」
「そうかなぁ。」
「そうだよ!」
 ずい、と僕に顔を近づけてきた。汗とシャンプーの混ざったような香りが、ふわっ・・・
 と僕の鼻孔をくすぐる。
 が、そんな事には気付いていない新城さんは、口角泡を飛ばして僕に抗議とも忠告とも
 つかないような言葉を並べ立て始めた。
「なんだかいっつもボーっとしてばっかりなんだもの、女子も長瀬君の事ひそかに『地ボ
 ケじゃないの』って言ってるんだよ!?皆が騒いでる時も外ばっかし見てたり、さっきだ
 って、体育用具室の前でボーっとしていたり・・・そんな事じゃ、何か危険が迫ってもぱ
 っとかわしたりできないじゃない!」
 少なくとも、その危険を僕にぶつけた張本人の言うセリフでは無いと思う。
 それにしても、普通言いにくい事をずけずけと言ってくれる。こうまでして僕の観察結
 果を、それも詳細に至るまで報告してくれなくとも良いものだが・・・
 詳細?
 僕は何か引っかかるものを感じた。
「新城さん・・・一つ、聞いていい?」
「ん?何?」
「どうして僕の事をそんな知ってるんだい?」
「・・・えっ?」
 まったく予測していなかった質問に頭をひねる。
「・・・う〜ん・・・」
 腕を組んだ体勢でしばらく熟考を続けていた新城さんは、おもむろに僕に視線を移して
 こう言った。
「分かんない!」
 片目をパチン、とつぶる。
 ・・・どうやら今まで悩んでいたのはポーズだったらしい。まったく新城さんらしいパフ
 ォーマンスだ。
「でも、何だか気になるのは事実なんだ!そうねぇ・・・昔、ずぅーっと昔に一度会った事
 があるような・・・」
 そう言われて僕はドキッとした。
「・・・そりゃあ、三年間も同学年にいるんだから、一回や二回は会った事があるんじゃな
 いかな。」
「そうかなぁ・・・まぁ、そうだろうけど・・・何か、こぅ・・・」
 今度は本当の熟考モードだ。胸の前に左手をやって、右手は何かを指すような形で虚空
 を泳いでいる。伏せている顔は、必死で何かを思い出そうとしている表情なのだろう。
 はたから見ていると、見事な「言葉が喉まで出かかっているのに思い出せない」状態だ。
 いや、実際その状態なのだが。
「そうじゃないのよ!」
 らちがあかなくなったのか、顔を上げて話し出す新城さん。
「そうじゃなくて・・・確かに会って、話をして、それで・・・ああ、もう!気持ち悪い!!」
 頭を両手でくしゃくしゃとかき回す。見ていて本当に飽きない。
キーンコーン、カーン、コオォーン・・・
 そうこうしている内に、保健室のスピーカーからベルの音が鳴り響いた。
 11:50
 時間から見て、四時限目の終了の音だろう。確か体育は三時限めだったから、僕は一時
 限分まるまる寝て過ごしたらしい。
「ほらほら、無駄話はそれぐらいにしなさい。早く戻らないと昼食が食べられなくなるわ
 よ。」
「あぁっ!いっけなーい!!」
 そう言って頭をかきむしるのを止めた新城さんは、時計を見ていきなり立ち上がった。
 そして、そのまま保健室を出かねない勢いで扉へ向かったが・・・
 ぴたり、
 と歩を止めてくるりと僕に向き直る。
「長瀬君、ごめん!今度お詫びになんかおごったげるから!」
「えっ・・・いいよ、別に。」
 その言葉を聞いて少しむっとした表情になった新城さんは、大股ですたすたと僕に近づ
 き、僕の胸元にひとさし指を押し当てた。
「あのねぇ・・・女の子がおごってあげるって言ってんだから、素直に聞いた方が心証いい
 よ!」
 ・・・この強引な性格は少し直した方がいいかも・・・
「・・・それとも・・・」
 指をすっと収めて僕の目を見つめた。
 意識してはいないのだろうが、強気な表情が少しはにかんだように変わる。

「あたしと話したりするの・・・いや?」
「えっ・・・」

 息がつまる。
「そ、そんなこと・・・ない、よ・・・」
 僕がやっとの思いでしぼりだしたその言葉を聞いて、彼女は満面に笑みをたたえた。
「えへへっ、良かった!」
 軽やかにきびすを返して走り去る新城さん。
「じゃあね、長瀬君。お大事に!」
 そう言って二、三度手を振ってから、慌ただしく扉を閉める。
 ・・・まったく、『台風のような』とはこの事を言うのだろう。いっぺんに保健室の中が
 本来の静寂を取り戻した。
「・・・じゃあ、僕も教室に戻ります。」
 そう言って立ち上がろうとした僕のところに、水無月先生がやってくる。
「何か異常があったら、すぐに保健室に来なさい。」
「はい、分かりました。」
 そう言って保健室を出ようとする僕を、
「ああ、そうそう。長瀬君。」
 水無月先生が急に呼び止めた。
「何ですか?」
 僕は後ろを向いて先生を見たが、当の先生は微笑みを浮かべて僕をじっと見ていた。
「・・・新城さんの事、軽々しく扱っちゃ駄目よ。」
「はぁ?」
 言っている意味が良く理解できない。
「そうね・・・今時珍しいぐらい純粋な子だから、不用意な事は言っちゃ駄目・・・ってとこか
 しら。」
 水無月先生の言わんとしている事は相変わらず分からないが、今の話なら良く分かる。
 明るく、元気で、おせっかいで・・・でも、だからと言って彼女は無神経な人間じゃない。
 現に僕は、そんな新城さんを見ていのだから。

 あの時、
 月島さんの電波に操られて、泣きじゃくりながら奉仕を強要されていた彼女は、弱くて、
 臆病で、他の誰よりもか弱い女の子に見えた。
 それこそ、僕の心の中にかすかな罪悪感を生み出すほどに。

「・・・それじゃ、失礼します。」
 僕は先生に一礼をして、保健室を出た。
「不思議な子ね・・・」
 閉められた扉の向こうの先生のつぶやきは、僕の耳に届いていなかった。


               # # #


 学生服に着替え、学食のカレーをかき込んだ後は、日常の風景が周囲を支配している。
 僕はまだ始まらない五時限目を待って、窓によりかかって外を見つめていた。
 ここ二、三日、色々な意味で気の休まる時間が無かった僕にとって、こんな日常の平穏
 は何よりもありがたいものだった。
 誰かが、傾きかけた陽光を遮るように僕の前に立つ。
「・・・長瀬君?」
「ん?」
 その影が僕を呼ぶ。
 声の方に顔を向けると、そこにいたのは・・・
「・・・まだ、頭痛い?」
 心配そうに僕の顔を覗き込む新城さんだった。
「あ、いや、大丈夫だよ。うん・・・」
「なら、良いんだけど・・・それより、ほら、そろそろ五時限め、始まっちゃうよ。」
 あいまいな返事をする僕を心配しながら、親切にそのことを告げてくれる。
 ・・・確かに、授業が始まるまでもう三分も無い。
「そうだね、ありが・・・」
 僕は新城さんに礼を言って、自分の席に戻ろうとした。
 が、
「ほら、沙織!しっかり面倒見てあげなきゃ」
 僕と新城さんの事を見ていたらしく、新城さんの友達らしき女の子が大声でそう言った。
 すると、
「なーにこんな所でいちゃついてんの!」
「青春ドラマならよそでやれ!」
「三年生第一号のカップル、おめでとーっ!」
 その一言を皮切りに、教室中から色々な声が飛び交ってきた。
「えっあ・・・いや・・・」
「ちょ、ちょっとぉ!」
 けたたましく教室の中に響き渡る声に、僕と新城さんははすっかり戸惑ってしまい、二
 人で一緒に周囲を見回していた。
 だが、
「長瀬!新城に襲われるなよ!」
「!」
 誰かが言ったその一言で、状況は一変した。
「・・・だ、だ、だ〜れ〜が〜」
 陰にこもった声に横を見ると、顔を真っ赤にした新城さんが怒りの形相すさまじく、あ
 る男子をにらんでいる。
「長瀬君を襲うですってーっ!!」
 止める暇も無く、とはまさにこの事だ。
 新城さんは瞬時にその一言を言った男子のところまで歩み寄ったかと思うと、男子相手
 に激しい口論を始めた。
「あ、あた、あたしはねぇーっ!そう言う冗談がだいっ嫌いなのよ!!」
「なんだよ、ちょっと長瀬に忠告してやっただけだろ。」
「あたしがそんな事すると思ってんの!」
「いやーわかんねぇぞ?案外体育の時のバレーボールも、長瀬を狙って打ったものじゃ・・・」
ばちこーーーん!!
 男子がその言葉を最後まで言うより早く、彼の机におかれていた青いルーズリーフが彼
 の頭頂部をしたたかに殴打した。
 犯人はもちろん、新城さんだ。
「そ、そそそんな訳ないでしょ!あれは純粋な負荷電力で・・・あれ?」
 あまりに強烈な一撃のためか、その男子が机に突っ伏したまま動かなくなった。
「ねぇ・・・ちょっと、」
しーん
 周囲も異常に気付いたらしく、教室内が水を打ったように静かになる。
「ちょっと!起きてよ!!ねぇったらあ!」
ゆさゆさ
しーーーん
「ねぇ・・・・・・」
 新城さんの呼びかけが空しく教室の静寂に消えていった。
 その時。
「ぞおぉーんびいぃぃ〜〜〜」
「きゃーーーっ!!」
 いきなり立ちあがった男子が、不気味な声と共に両手をあげて新城さんに立ちはだかっ
 た。効果は絶大だったらしく、新城さんは完全に不意をつかれ、叫びながら床に座り込
 んでしまった。
 一瞬の間を置いて、教室がどっと笑いで満たされる。
「いい!いいぜ金井!それグッ!!」
「いよっ!もと2−Bいちのお笑い男!!」
 はやし立てる声、絶賛の声、笑い声・・・そんな声が響き渡る中、おそらく僕だけがある
 事に気付いていた。
 新城さんが立ち上がらない。
 いや、
 立ち上がれないでいるのだ。
 腕を震わせ、力無くへたり込んだまま、動けないでいる。
 そして、その頬に何かが光ったその時、

ピイィ・・・ン

 僕は聞いた、彼女の涙の雫が床を叩く音を。
「ぞおーんびぃー」
「きゃーきゃー!」
「こっちくんな!ばか野郎!!」
 さっきの男子(金井・・・だっけ)が教室内を徘徊し始め、教室中の目が彼の方を向く。
 その隙に、僕は新城さんの横に素早くしゃがみこんだ。
「大丈夫?新城さん」
「あ・・・長瀬くん・・・」
 ハンカチを差し出して、彼女の頬の涙をぬぐう。
 すると、
 新城さんは僕の手を強く握って満面に笑みをたたえた始めた。
「よかったぁ・・・」
「えっ?」
「やっぱり、たすけにきてくれたんだね・・・」
 そうつぶやいた彼女の表情は、何故かひどく朦朧としている。
「いったもんね、たすけにくるって・・・あたし、もう・・・」
「どうしたんだ?新城さん!」
 次に新城さんの口から出た言葉を聞いて、僕は愕然とした。

「もう・・・でんぱは・・・いや・・・」

 か細くつぶやいて不安げな表情をする新城さん。
 その瞳はどろりと濁り、微妙に焦点が合わなくなっている。それは・・・あの太田さんや
 瑠璃子さんと同じ、「狂気の瞳」そのものだった。
「し、新城さん!」
 僕がそう叫んだ次の瞬間、
ガラッ
 乱暴に扉を開ける音が教室中に響く。
「こらーっ!お前ら何やってんだ!もうとっくにチャイムは鳴ってんだぞ!!」
 勢いよくドアを開けた先生が、怒号一声、全員に着席を促した。
「えっ・・・あ?あたし・・・」
 周囲の人間が慌てて自分の席に戻ろうとした時、彼女の瞳は普通の人のそれになった。
 そして、
「あぁっ!先生もう来ちゃったの!?」
 と言うが早いか急いで立ち上がり、自分の席へと向かう。
 その間際、
「ハンカチ、ありがと!」
 と僕にウィンクをした新城さんは、もういつも通りの彼女だった。
 ・・・しかし、
 あの瞳だけは、いつまでも僕の脳裏に焼き付いて消えないでいる。
 狂気の瞳・・・よりによって、最も狂気から縁遠いと思っていた新城さんが、あんな瞳を
 するなんて。
 ・・・そして、あの言葉・・・
「・・・・・・」
 その時僕は、言いようの無い不安と不気味さに支配されていた。

 結局、その日の残りの授業の内容は、僕の頭に残らなかった。


               # # #


 ホームルーム終了のチャイムが鳴り響く。
「よし、連絡事項はこんなとこだ。委員長、」
「きりーつ」
 先生の言葉が終わるのとほぼ同じにクラス委員の号令が聞こえる。
ガタガタガタ
 膝の裏で椅子を押しのけて立ち上がり、号令と共に一礼。後は皆が待ちに待った放課後
 だ。
 一日の全ての授業が終わった時の何ともいえない開放感は、それまで沈んでいた気分を
 さわやかなものに変えてくれる。
 それは僕も例外ではない。
「ふぁ〜あ」
 椅子に座ったまま伸びをすると、あくびがもれてしまった。ちょと気恥ずかしい気分に
 なる。
 と、そこに・・・
「ちょっと、長瀬君」
 いささか不意打ちぎみに後ろから声をかけられ、僕はちよっとうろたえてしまった。
 ガタッと椅子が鳴る。
「な、何だい?」
 なるべく平静を保って振り向くと、背の高い女子が僕の後ろに立っていた。
 名前は確か・・・鮎原さん。
 短い髪ときつめの表情が印象的な、かなり身長のある女の子だ。
「あなたに話したい事があるんだけど、時間、ある?」
 鮎原さんにそう言われ、正直僕は
「?」
 と思ったが、その様子から見て、別に文句の類いを言いにきた訳ではないらしい。
 僕が、
「あぁ、大丈夫だけど。何?」
 と言うと、鮎原さんは一瞬後ろを見てから、
「ここじゃなんだから・・・屋上まで来てくれる?」
 と言った。
 その様子を見て僕は、何となく鮎原さんが何について話をしたいのか分かってしまった。
 なぜなら、彼女の後ろには・・・

「ん〜今日はバレー部のミーティングがあるから、ごめん!」

 友達と談笑する新城さんが居たからだ。
 一瞬、さっきの新城さんの『狂気の瞳』が頭をよぎる。
「・・・いいよ。」
 そのまま僕は鮎原さんに促されて、屋上へと向かった。


               # # #


 春先とは言え、夕方の風はやはり肌寒いものを感じる。だが、そんな冷たい風の印象と
 は裏腹に、屋上は傾きかけた太陽の強い日差しに照らされていた。
 屋上までの道中、特に口を開く事もしなかった鮎原さんは、屋上の真ん中に歩み出ると
 振り返って僕を見つめた。
 鮎原さんは女子としてはかなり背が高い人で、(180cmぐらいあるらしい)そんなに背が
 低い訳ではない僕も見下ろされるような形になってしまう。
「・・・ふーん、あの子も案外・・・」
 鮎原さんは腰に手を当てて、冷やかすようにそう言った。
「・・・どう言う意味?」
 彼女の真意を計りかね、そう聞いてみる。
「あははっ、気に触った?ゴメン。ただ、オクテな沙織にしては、意外だなぁ・・・って思
 ってね。」
 やはり僕を呼び出したのは、新城さんについてだった。
 ・・・そういえば、確か鮎原さんは全国屈指のバレー選手だと聞いた事がある。新城さん
 とは部活で知り合っているのだろうが、今の話の様子から聞く限りでは、ただの友達程
 度の仲ではないらしい。
「話ってのはね・・・実は、沙織の事で言っておきたい事があるのよ。」
「新城さんの事?」
 確かにその事で話をされるとは思っていたが・・・正直なところ、何を話されるのかは見
 当もついていない。
 案外、
「なに沙織にちょっかいかけてるのよ!」
 とか言われるのではないか・・・と思ったりもした。
 でも、教室の中での態度といい、今の真剣な態度といい、そんな感情的な事を言う雰囲
 気ではなさそうだ。
 僕が頭の中でそんな考えを巡らせていると、
「ふぅ・・・」
 鮎原さんは、深呼吸をしてからゆっくりと僕に語り始めた。
「実はね、長瀬君。」
「・・・うん。」
 その時の僕は、どんな悪口雑言を言われてもひるまないような覚悟は出来ていた。
 だが、
 次に彼女の口から出てきた言葉は、僕の予想の範疇を越えていた。
「沙織ね、前からあなたの事・・・好きだったの。」
「・・・え?」
 瞬間的に思考が止まる。
「あの子・・・結構、真剣らしいから・・・」
「えぇっ!?」
 予想もしなかった言葉が鮎原さんの口から次々と出てきた。
 新城さんが・・・僕の事を?
「実はね、三年生になる前、沙織があたしに相談してきたの。『ずっと気になってる男の
 子が居る』ってね。」
 三年生になる前?そんな時から・・・
「最初は『興味がある』程度だったらしいんだけど・・・長瀬君って、不思議な雰囲気して
 るでしょ?」
「そ、そうかな。」
「そうよ。」
 ・・・まさか、ここまできっぱり言い切られるとは思わなかった。やっぱり新城さんの友
 達らしく、そういう所は良く似ている。
「クラスの中でも孤立しているけど、いじめられてる訳でも、まして嫌われてる訳でもな
 い・・・」
 鮎原さんはそこで言葉を濁すと、僕をちらっと見た。
「?」
 いぶかしがる僕を見て、再び彼女は話し始める。
「だからあたしは、『プライドが高いんじゃないの?みんなの事見下してんのかもしれな
 いわよ』・・って言ったの。」
 言葉を濁す理由は分かった。だが、彼女が言った事に対して、僕は不快感を感じなかっ
 た。
 実際、半年前の僕は、その通りの人間だったのだから。
「でもね、沙織は『だったら、あんなに優しい目をしてない』・・・って言うのよ。」
「優しい目?」
 僕が?
「そう。」
 鮎原さんはこくりとうなづいた。
「風景を眺める時や、皆を見ている時の長瀬君は、本当に優しい目をしてるんだって・・・」
「・・・・・・」
 確かに、僕はこの世界の鮮やかな色彩を感じる時、とても落ち着いた気分になって、心
 が満たされるような気がする。
 だが、
 この優しい気持ちや、穏やかな心・・・その全ては、瑠璃子さんがあの時教えてくれたも
 のだ。
 僕の中のそんな気持ちを、新城さんは気付いていたのかもしれない。
「・・・そうやって思いつめてる所を見ると、沙織の言ってる事もただのひいき目じゃない
 と思えるわね。」
「えっ・・・あ、いや・・・」
くすっ、
 まじまじ顔を覗き込まれていた事に気付いた僕を見て、鮎原さんは軽い笑みをこぼした。
「ま、いいわ。とにかく、あたしが言っておきたかったのは、沙織の気持ちに本気で答え
 て欲しいって事・・・友達としての、おせっかい。」
 僕の横を通り、鮎原さんはゆっくりと出口に向かっていた。
 そのままぶ厚い金属のドアの前で立ち止まる。
「好きでも嫌いでもいいから、本当の気持ちで向かい合ってあげて・・・沙織、長瀬君の事
 を本気で想ってるんだから・・・夢に見るほどね。」
「・・・夢に?」
「そう。」
 くるりと鮎原さんが振り向く。
「いつだったか・・・夢を見たんだって。だれかにつかまって酷い事や苦しい事をされてい
 る時、長瀬君があらわれて、悪い奴を倒して沙織を助けてくれた・・・そんな夢らしいわ。」
 それを聞いた僕の心臓が、
ドクン、
 と内側から胸を叩く。
「長瀬君は沙織にとって・・・白馬の王子様なのかも・・・なんて、ね。」
ギイッ
 扉は不快な音を立てて開き、鮎原さんはその向こうに吸い込まれるようにして消えた。
・・・バタアァァン・・・
 金属の扉は、長い余韻を残して閉じた。
 耳の奥に残るその音を聞きながら、真紅に染まった屋上で、僕は身も心も紅い色に侵略
 されて行くような錯覚を覚えていた。
ドクン、ドクン、
 酷い事?
 苦しい事?
 僕が・・・現れて・・・
 悪い奴を・・・倒した!?
 その言葉に触発されるかのように、脳裏にある光景が蘇る。
 月明かりしかなく薄暗い室内。精液と愛液の香りで濁った空気が満ちる生徒会室・・・そ
 こで白い裸体をさらけ出す少女達の中に、僕に助けを求める瞳があった。
 僕は、すがるようなその瞳に向かってはっきりと告げた。
『二人とも、・・・きっと、助けに来るから。』
 さっきの新城さんの言葉が、その記憶の言葉と交錯する。

「いったもんね、たすけにくるって・・・」

ドクン、ドクン、ドクン、
 動悸がどんどん激しくなる。
「・・・そんな、まさか・・・」
 狂気の瞳の訳も、
 僕への興味の訳も、
 その夢の理由も・・・そう考えれば合点がいく。
 足が震え、体が急速に冷えて行くのを感じながら、僕は、体とは裏腹に熱く火照った頭
 の中で、恐ろしい憶測が組み立てられて行くのを実感していた。
「新城さんは、あの夜の事を・・・」
 間違いない。

「あの事件のことを・・・」
ドッ・・・クン
「・・・覚えて、いるんだ・・・」

 完全な記憶では無いかもしれない・・・けれど、その断片は彼女を確実に狂気の縁へとい
 ざなっている。このままでは、新城さんは全てを思い出してしまうだろう。
 あの事件の時の、忌まわしい記憶を。
 僕はその事実に、身も凍るような恐怖と何かに焦る気持ちを感じた。
「どうすれば・・・」
 僕は、何をすればいいんだろう?狂気の扉を、それとしらずに開こうとしている人がい
 る・・・そんな人に対して、僕に何が出来るだろう。
 紅く染まりかけた日差しが僕を包む。
 夕日の赤。
 溶鉱炉の中の金属が、飴色になって溶け落ちるような赤。
 火花の赤、
 線香花火の赤、
 奇麗で、鈍い赤
 そして・・・狂気の赤。
 奇麗な、それでいて狂ったような深紅の光に包まれながら、僕は、あの時閉じた狂気の
 扉が再び開きかけている事に気がついた。
 しかし、今、その扉の向こうに魅入られているのは、僕ではない。
 新城さん。
 狂気から最も縁遠いはずだった、新城さんだ。
「・・・僕は・・・何が出来るんだ・・・」
 分からない。
「・・・何をしたら・・・いいんだ・・・」
 混乱した思考が頭を灼く。
「どうすれば・・・いい・・・ん・・・だ・・・」
 道標も、答えも、光明も見出せないまま、僕は思考の迷路に陥った。


               # # #


 帰り道で僕は、駅前通のハンバーガーショップに寄った。これまでの事を整理して、頭
 を落ち着けるためだ。
 ふと店内の時計を見ると、シンプルな壁掛け時計の短針は七時をささんとしていた。
「もう七時か・・・」
 しばらく駅前をさ迷っていたため、こんな時間になってしまった。
 家に電話をしようかと思ったが、今日は父さんも母さんも仕事が長引くと言っていた事
 を思い出し、無駄にテレホンカードを浪費する事をやめた。
「・・・ふぅ、」
 自然にため息がもれる。
 束縛と衝撃から開放され、やっと落ち着いた気分になった僕は、街灯や看板の光の中を
 流れる人の波を見つめながら、注文が来るまでのしばしの安息を楽しむ事にした。
「・・・・・・」
 目の前を流れる人ごみは相変わらず無秩序に続き、まるでエンドレスのフィルムを見て
 いるようだ。
 あふれる人ごみ、
 この中で、一体どれほどの人間が『生きている』事に実感を持っているのだろう。
 ひょっとしたら、
 新城さんだけではなく、自身でもそれと気付かずに狂気に踏み込んでいる人が居るのか
 も知れない。
「・・・そうだよな・・・」
 狂気のきっかけは、何気ないところに転がっている・・・僕はそれを、良く知っているじ
 ゃないか。
 何も無い日常ですら、
 平穏な時間ですら、
 狂気の引き金になるって事を。
 そして気付くんだ。
 日常を、
 平穏を、
 当たり前だと思っていた自分の愚かさに。
 少なくとも、この僕はそれに気がついた。僕一人の力じゃなく、瑠璃子さんの導きによ
 って・・・
「チーズバーガーとコーヒーシェイクをお待ちのお客様ー」
 そんな感傷をかき消すかのように、後ろから店員の声が聞こえた。
「あ、すいませーん。」
 軽く手を上げて、振り返ると・・・
「!!」
 店員がプラスチックのトレーの上にチーズバーガーとコーヒーシェイクをのせて立って
 いた。
 ・・・いや、それはいいんだが・・・
 その店員の後ろにちらちらと見え隠れする人影がある。
「・・・」
「あのー、こちら・・・です・・・よ・・・ねぇ、」
「・・・・・・あっ!はい!そうです。」
 絶句していた僕は、店員の問いに一瞬こたえられなかった。
 相変わらずその後ろには大きなスポーツバッグと長い髪が見え隠れしている。
「はい、こちらチーズバーガーとコーヒーシェイクになります・・・ご注文の品は、以上で
 すか?」
「・・・はい。」
「それでは、ごゆっくりどうぞ。」
「・・・・・・」
 去っていく店員の後ろについて行こうとする人物に声をかけるべきかどうか、僕は真剣
 に悩んだ。
すたすたすた
ひょこひょこひょこ
 身をかがめたまま器用に店員のあとをつける彼女は、店員がカウンターに戻ろうとして
 いるのも気付いていない。
 ・・・いや、気付かぬ振りをしているだけなのだろう。
「・・・・・・新城さん!」
 根性比べは僕の負けのようだ。
 彼女はぴたっと歩を止め、猫背のままで振り返る。
「みぃ〜た〜なぁ〜〜〜」
 『妖怪猫娘』とテロップが出たような気がした。
「見たな、じゃないよもう・・・」
 さっきの決意が緊張感と共に崩壊してしまいそうだ。
「えへへ、ねぇ、いつ気付いた?」
「・・・店員さんの後ろについてすぐ。」
「へぇ、じゃあ外から見てた時は気付いてなかったんだ。」
「・・・外?」
「うん。」
 僕の向かいの席にすとん、と言った感じで座る。
「友達も帰っちゃって、なんかつまんないな〜って思ってたの。んで、とりあえず腹ごし
 らえでもしよう!って感じでここに来たら、なんと窓際で長瀬君がぼけ〜っとしてるの
 が見えたのよ。」
「は、はは・・・ぼけ〜っと、ねぇ・・・」
 悪気はないんだ、悪気は・・・
「でもさ、これってすっごい偶然だよね。だって、いつもだったらこんな時間にここ通っ
 たりしないもん。」
「いつも通り?」
 そう言えば、女子バレーの練習はかなり遅くまでやっているらしい。以前聞いた記憶に
 よると、八時九時はあたりまえだとか・・・
「いつもはもっと遅いんだね。」
「うん、今日はミーティングと基礎練習だけで終わり。先生が用事があるんだって。」
「先生って・・・たしか化学の北沢先生だっけ?」
「そう!その北沢先生がねぇ、もう・・・最近ひどいの!」
 ばん、と机を軽く叩く新城さん。相変わらずのオーバーアクションは、人の多い店内で
 はちょっと恥ずかしい。
「先生ったら、ここんとこずーっと私達にハードな練習ばーっかさせるのよ!もぅ、こん
 な時でもなきゃ早く帰れないんだもん〜」
 いきなり不満とも愚痴ともつかないものを叩き付けられて、僕はちょっと反応に困って
 しまった。
「は、はぁ・・・」
「それでね、私たちがちょっとでも文句を言おうものなら・・・」
 一旦そこで言葉を切って、
「『昔は俺もなぁ、これ以上に厳しい練習を乗り越えて・・・』って昔話とお説教の嵐なの!」
 北沢先生の物まねをまじえて話を続けてくれた。
「ふ〜ん、化学の授業をやってる様子からじゃ、想像も出来ない熱血ぶりだね。」
「なんでも、若い頃はバレーでブイブイ言わせてたらしいわよ。・・・あ、あくまで本人談
 ね。」
 うちの女子バレーはこの近辺の高校の中では強豪といわれていて、去年の冬期地区大会
 でも見事優勝を飾った程だ。
 今の話を聞く限りでは、その強さの裏には北沢先生の熱血な指導があったらしい。
「じゃあ、先生のおかげでバレー部は強くなれたんだね。」
「まあね。う〜ん・・・でも、平気な顔で『今日はスパイク百本だー』なんて言ってる時は、
 あの顔が一瞬悪魔に見えちゃったりするかも。」
「あははっ」
 新城さんは本当に楽しそうに話をしてくれる。きっとこの明るさが、彼女をクラスや部
 活の人気者にしているのだろう。新城さんと居ると、身も心も温かくなっていくようだ。
 僕は少しだけコーヒーシェイクをすすって、火照った喉を冷やした。 
「・・・ふふっ」
「?」
 小さな笑い声につられてふと視線をシェイクから新城さんに移すと、彼女は頬杖を突い
 て、じっと僕を見つめるような姿勢になっていた。
 ちょっと頬が熱くなる。
「な、何?」
 少し声が裏返ってしまった。
 しかし、そんな僕の狼狽に気付かないまま、新城さんは不思議な微笑みを投げかけてく
 る。
「やっと、笑ってくれたね。」
「・・・えっ!?」
 言われてみて初めて気がついた。新城さんとの話で僕が笑ったのは、今が初めてなんだ。
 いや、それだけじゃない。
 声を出して笑うこと自体、本当に久しぶりだ。
「私と一緒じゃ、つまんないのかなぁ・・・て思ってたから、ちょっと安心しちゃった。」
 そう言って、ぱちっと片目をつぶる新城さんは、何だかとっても魅力的に見えた。
 少しだけ心臓の鼓動が高まる。
「あ、そうだ!思い出した!!」
 新城さんは突然何かを思いついたようにそう言って、僕の目をのぞき込んだ。
「ねぇねぇ長瀬君。下の名前、なんて言うの?」
「えっ?あぁ・・・祐介、長瀬祐介だよ。」
「ふ〜ん・・・あのさ、長瀬君の事、名前で呼んでいい?」
 質問も唐突なら、申し出も唐突だ。
「あたし、『なになに君』とか『なになにさん』って呼び方好きじゃないの、だって言い
 にくいでしょ?それになーんとなく他人行儀だし・・・もう友達なんだから、ね。」
 彼女にそう言われ、僕は何となくドキッとしてしまった。
「・・・そうだね。」
「そうね・・・じゃあ、祐介だから・・・『祐くん』ってのはどう?」
 僕はその名前に懐かしさを感じた。なぜなら、新城さんが提案したその名前は、僕が親
 戚の人たちに呼ばれていた愛称だからだ。
 一気に新城さんへの親しみがわく。
「うん、いいよ。新城さんにそう呼ばれると、何だか嬉しいな。」
 素直な気持ちが口をついて出た。
「えへへ、そう?・・・じゃあ、私の事も名前で呼んで欲しいな。」
「名前?・・・沙織ちゃん、とか。」
 得たり、と言った感じで何度もうなづく沙織ちゃん。実は、彼女の方が名前で呼ばれた
 がっていたのかもしれない。
「そうそう!それそれ。みんなに名前で呼ばれてるから、そっちの方が『呼ばれてる』っ
 て気がするなぁ。」
 名前で呼ばれてるって事は、やはりそれだけ彼女が皆から親しまれているって事なのだ
 ろう。
 新城さん・・・
 沙織ちゃん!
 うん、やっぱりこっちの方が彼女のイメージにぴったりだ。
「じゃあ、改めて・・・よろしく、沙織ちゃん。」
「こちらこそ!祐くん。・・・ぷっ・・・くくっ・・・」
 変な自己紹介をお互いにし合った後、沙織ちゃんはくすくすと笑い出した。
「今さら自己紹介なんて・・・あはっ、変なの。」
「・・・そうだね、変だよね。」
「ははっ・・・うん、変だよ。・・・でも、」
 やっと笑いがおさまって来たのか、再びテーブルに頬杖を突く。
「何となく・・・いいな。」
「・・・うん。」
 そう言って優しく微笑む沙織ちゃんの表情は、彼女を『ガサツ女』と呼ぶ男子に見せて
 やりたいくらい、可愛くて、魅力的で・・・本当に優しい表情だった。
「・・・実は僕も、話をするのは嫌いじゃないんだ。だから、しん・・・沙織ちゃんとこうやっ
 て話していると、とっても楽しいよ。」
「ほんと?」
 瞳を輝かせて喜ぶ沙織ちゃん。しかし、その表情はすぐにいぶかしがるかのような表情
 にとって変わった。
「だったら、もっと話をすればいいのに・・・ねぇ、どうしていっつも一人で居るの?」
「・・・・・・」
 この時、僕はいつも通りの言葉を口にだそうとした。それはあたりさわりのない言い訳
 だった。
 「口下手なんだ。」
 違う。
 「だから・・・人と接するのが苦手なんだよ。」
 嘘だ。
 本当はそうじゃ無い。
 それは、他の人に対する時の言葉だ。少なくとも、今の沙織ちゃんに、僕の事を知って
 もらいたいと思う相手に向けるべき言葉ではない。
「・・・僕は・・・」
 ゆっくりと話を始めた。
「・・・僕は、他の人とはちょっと違うんだ。ものの感じ方とか・・・考え方とかがね。」
「ふ〜ん。」
 沙織ちゃんは僕の話に興味を示したらしく、背筋を伸ばして聞き入り始めた。
「でも、普通の人より偉いとか、すごいって意味じゃないんだ・・・他の人たちも気付いて
 いるような事を、深く考え込んじゃうのさ。」
「それって、哲学とか心理学とか?」
「いや、そんな高尚なものじゃないよ・・・何ていうかなぁ・・・」
 僕は自分の心理を表現する言葉を探している内に、ふと心に何かがよぎるのを感じた。
 それは・・・

「・・・壊れやすいんだよ。」

「えっ?」
「この世界は、壊れやすい世界なんだよ。何かのきっかけで、崩れてしまいそうなほどに。」
 僕の中に浮かんだビジョン、
 それは、傷つき泣いている瑠璃子さんの姿と、一人で泣いていた幼い月島さんの姿だっ
 た。
「誰もが、ちょっとした事で壊れてしまうような心を持って生きているんだ。でも、普通
 はそれに気付かないから、その場その場をなんとなく生きてしまう人が多い・・・でもね、
 壊れてしまってから、初めて気付くんだよ。この世界が、みんながそれぞれ持っている
 心が、どれだけ温かくて大切なものかをね・・・」
「・・・じゃあ、祐くんは・・・『壊れた』人なの?」
「!!」
 沙織ちゃんの言葉は、僕の胸を鋭くえぐった。
「・・・」
 つい、話をごまかしてしまいそうになる。
 しかし、
 沙織ちゃんの真剣な眼差しに見据えられた僕は、意を決して口を開き始めた。
「・・・僕は、壊れたんじゃない。壊れかかった人間なんだ・・・」
「・・・・・・」
 周囲の喧騒が意味を無くし、僕と沙織ちゃんの周りを不思議な空気が包む。言葉にする
 ならば・・・
 静寂、
 緊張、
 そんな張り詰めたような空気だ。
「いっそ壊れてしまえば良かったのかもしれない。けれど、僕はこの世界に戻って来る事
 が出来た。・・・それからだよ。みんなといる時間が大事に思えるようになったのは。」
「じゃあ、なおさら友達になった方が・・・」
 その言葉に、僕は静かに首を横に振った。
「言っただろ?僕は壊れかけた人間だって。いくら人を大切に思えても、いくらこの世界
 の素晴らしさを感じても・・・だめなんだよ。」
ズキンッ
 胸が痛む。
「そんな素晴らしい世界全てを知る事もかなわずに、」
ズキンッ
「壊れてしまった人が・・・いるんだ。」
ズキンッ
「その事を思うと・・・」
ズキンッ 
 僕の胸を熱い痛みが走る。
「・・・僕は・・ぼく・・・は・・・」
 その痛みは、とてつもなく大きい罪悪感と、大切なあの人がこの世界に戻ってこない事
 への絶望だった。
「・・・ぼ・・・く・・・は・・・」
 痛い。
 痛い、痛い、痛い、
 痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!
 その痛みは少しづつ僕の体をむしばみ続け、ついには全身に広がろうとしていた。
 気が遠くなり、視界が歪み始める。
 目の前の沙織ちゃんの顔も、それにつれて・・・
「・・・!?」
 その時、僕は信じられないものをみたような気がした。
「・・・大丈夫だよ、祐くん・・・」
 沙織ちゃんは僕の手をきゅっ・・・と握って、優しい微笑みを浮かべていたのだ。その瞳
 は、まるで湖に写った満月のように、妖しい輝きを放っている。
「さ、沙織ちゃん・・・」
 握られた手から、徐々に痛みが消えて行く。
「誰でもそうだよ。」
「えっ?」
「狂いそうに退屈な日常を、刺激を求めて生きてるんだもの。あたしが、バレーをしてい
 る理由だってそうだよ。」
「・・・・・・」
 僕は、今の沙織ちゃんに不思議な違和感を感じている。
 狂気ではない。
 かと言って、普通でもない。
 ただ、狂気の瞳を持つ彼女の言葉は、不自然なまでにいつもの沙織ちゃんの言葉そのも
 のだ。
 ひょっとしたら、
 今の彼女が、本当の沙織ちゃんなのかもしれない。
 元気で、活動的で、明るくて・・・そんな沙織ちゃんだけど、本当の彼女は今僕の前に座
 っている、はかなげな感じの女の子なのかもしれない。
 虚ろな、しかし美しいその瞳は、そんな印象を僕に与えてくれる。
「つまんない、つまんない、つまんない・・・永遠に『つまんない』が続く毎日だから、み
 んな何かを探すようにもがいているんだと思う・・・だから、祐くんだけが特別じゃない
 し、壊れちゃった人だって、それは・・・分かっていると思うよ。」
 触れたら消えていってしまいそうな・・・そんな存在感の希薄さが示すとおり、まさに今
 の沙織ちゃんは狂気の縁に立っていた。
「沙織ちゃん・・・」
 彼女の優しい表情とその瞳を見つめていた僕の口から、意図せず言葉が漏れる。
「・・・君も、壊れたいの?」
「えっ?・・・ううん、壊れたくなんかないよ・・・あたしは今のあたしが好きだし、友達もみ
 ーんな大好きだもん。・・・でも、」
 優しい微笑みを僕に向ける沙織ちゃん。しかし、その表情はどことなく虚ろで、現実味
 が薄れていた。
「祐くんと一緒なら・・・壊れても、いいな・・・」
「えぇっ!?」
 一気に心臓が跳ね上がる。
 さっきのような重い痛みではない、針で突つかれるような痛みが胸を満たす。
ドクン、ドクン、ドクン、
 脈拍が上がって、頬が上気する。
 沙織ちゃんの顔が・・・まともに見られない。
「ねぇ、祐くん。」
 甘えたような声に僕が顔を上げると、沙織ちゃんは僕の横に立って、嬉しそうに僕の顔
 を覗き込んでいた。
「もし、あたしが一緒だったら・・・壊れてくれる?」
 甘い息がかかる。
 女の子の汗の香りが、僕の鼓動をよりいっそう激しくさせた。
「・・・いい・・・よ。」
 僕は自分の気持ちを正直に口にした。
「本当!?」
 ぱあっと明るい表情になる。
「うん、沙織ちゃんとだったら・・・いいよ。」
 あまりの気恥ずかしさに、思わず顔をそむけてしまう。
「えへへっ・・・うれしいな。」
「うれしい?」
「うん!だってあたし、祐くんの事・・・大好き、だもん。」
「!!」
 その声の甘い響きに、僕は一瞬、我を忘れてしまった。
 沙織ちゃんの微笑み、
 沙織ちゃんの香り、
 沙織ちゃんの・・・息づかい。
 その全てが、僕にとって大切なもののように思えた。
「ほ、本当?」
「うん、大好きだよ、祐くん。」
 そう言って沙織ちゃんは僕の顔を覗き込んだ。
 ・・・いや、
 僕の顔に、自分の顔を寄せているのだ。
 ゆっくりと閉じられる目。僕も、それに応えるかのように、静かに目を閉じた。
 抵抗も、疑問も、僕の中には存在していない。
 ただ・・・沙織ちゃんだけが僕の心を満たしていた。

ふぁっ

 長いような、短いような時間が過ぎた時、僕の唇に触れたのは沙織ちゃんの感触ではな
 かった。
 風
 そう、何かが通り過ぎるようなかすかな風が、僕の顔を滑っていったのだ。
「?」
 僕が目を開けると、
「・・・あ、あたし・・・」
 目の前には、愕然とした表情の沙織ちゃんが立っていた。
 あまりの驚きに背筋を硬直させ、両手は口元を覆っている。その格好はまるで、自分の
 唇を守るかのようだ。
「さ、沙織ちゃん。」
がたっ
 横の席に立てておいた僕の鞄が、僕が立ち上がった弾みで倒れてしまった。
 そして、
ばぁんっ!
 鞄が床に落ちる音に反応して、硬直していた沙織ちゃんの体が
「ひっ!」
 びくっ!!と跳ねる。
「い、嫌、違う・・・違うの、祐くん・・・あたし、あ、あたし、こんな事、するつもりじゃ・・・」
 怯えたような目を僕に向けながら、沙織ちゃんは一歩、二歩と後ずさりをし始めた。
「・・・沙織ちゃん」
「!」
 僕が沙織ちゃんに近づこうとした時、それをきっかけに彼女ははじけるように動き出し
 た。
 自分の鞄を椅子からひったくって、一目散に出口に向かう。駆け出した彼女の目には、
 うっすらと涙が浮かんでいた。
ざわざわざわ
 周囲の喧騒も、今の僕の耳には全く届いていない。僕はただ、彼女が落としていった涙
 のあとを見つめていた。
「・・・さ・・・」
 床に落ちた雫は茶色のタイルの中にその身をゆだね、ゆっくり、ゆっくりと消えてゆく。
 その雫が消えた後は、
「・・・沙織・・・ちゃん・・・」
 僕の席の前に佇んでいるスポーツバックだけが、そこに沙織ちゃんが居た事を示してい
 る。


               # # #


 次の日、沙織ちゃんは学校を休んでいた。
「・・・・・・」
 朝の喧騒に満ちた教室。
 そんな爽やかな空気の中で、僕の胸の中だけは形容しがたい濁った不安がどろりと滞っ
 ていた。
・・・ガタン
 僕は彼女の机にスポーツバックをかけ、自分の席へと戻った。
 そして、日常が始まった。
 彼女が居ないままに。


               # # #


 その日の夜、
 僕は眠りにつけず、ぼんやりと部屋の窓から夜空をながめていた。
 真円を描く月は、昨日の沙織ちゃんの瞳のような、現実味の無い輝きを放ちながらベッ
 ドの上の僕を照らしていた。
 その柔らかい光の中で僕は、まどろみとも回想ともつかない世界に浸って行く。

「・・・・・・」
 僕は、沙織ちゃんの事を思い出していた。
 狼狽した態度、
 震え出す体、
 怯えたような瞳・・・
 ・・・いや、
 本当に、怯えていたんだ。
 自分の意志とは関係無く動く体に、言いようの無い恐怖を覚えていたのだ。
 無理も無い。
 自分の体が自分の意志を離れて、勝手に言葉をしゃべり、動き、行動する・・・想像した
 だけでもぞっとする話だ。彼女はそれを身をもって味わったのだ。パニックに陥って当
 然だろう。
 だが、これで僕は確信した。

「沙織ちゃんは・・・自分の狂気の存在を知らないんだ。」

 自分から狂気に近づいた僕や、きっかけを与えられた他の人と違って、彼女は自身の狂
 気の存在を知らないまま、狂気に身を投げようとしているのだ。
 本人の意思とは関係無く。
「沙織ちゃん・・・」
 目を開け、中空に浮かぶ満月を見つめる。
「・・・僕は、君に・・・何が出来るんだい?」
 月の光の中に浮かぶ沙織ちゃんの姿は、微笑みを僕に向けるだけだった。
 その瞳から涙がこぼれたように見えたのは、眠りにつく間際の幻想だったのかもしれな
 い。


               # # #


 眠気とも違う、頭にぼんやりと霧がかかったような気分のまま、僕は学校に向かった。
 朝の学校へ向かう道は同じ制服の生徒達で満たされ、まるで予定されているかのような
 喧騒を生み出している。
 あふれる人、人、人・・・しかし、その中に、僕の探すあの娘は居なかった。
「・・・くそっ」
 思わず彼女の姿を探してしまっていた自分に、僕は嫌悪感を感じた。大体僕は、彼女に
 会って何を言うつもりなんだ?
「おはよう、元気だった?」
「この前はどうしたの?」
 ・・・あの彼女を見た後では、何を言ったってうわべだけの言葉に聞こえる。
 だからと言って、
「狂気にとらわれているね。」
「君が君じゃない時があるだろう?」
 いきなりそんな事を言っても彼女には何の事か分からないだろう。彼女自身、自分の中
 で何が起こっているのか、知らないのだから。
 何より・・・

「・・・僕は、壊れたんじゃない。壊れかかった人間なんだ・・・」

 あの事を言った以上、彼女が僕を避けずにいてくれるのかどうかすら疑問だ。そう思う
 と、行き場の無い焦燥感だけが、ただ、無意味に膨らんで行く。
 頭の中にかかった霧も、その濃さを増すばかりだ。
「・・・ふぅ・・・」
 意図せずに、大きなため息がもれる。
 学校までの道のりがこんなに長く感じた事はない。
 すると、
「おはよう。」
「?」
 誰かが僕に声をかけた。
 その言葉に顔を上げた僕は、はじめて自分が学校の校門にたどり着いていた事に気づい
 た。
 次いで軽く周囲を見回し、声の主を探す。
 ・・・誰だろう?
「後ろだよ。」
 言われるままに振り向くと、
「あっ・・・」
 門柱に寄り添うように、沙織ちゃんが立っていた。
「さっきから、ここにいたのに・・・気づかなかった?」
「うん・・・ごめん。」
 ・・・いや、
 今・・・話をしている今でも、僕はこの娘が本当に沙織ちゃんなのかと思ってしまう。そ
 れほど、彼女特有の元気さが失われている。
「そんな、あやまんなくってもいいけど・・・祐くんって、結構地ボケ入ってる?」
「良く言われるよ、それ。沙織ちゃんも前、言ってたじゃない。」
「あ、そうだっけ?覚えてないや。はは・・・」
 乾いた笑いが僕の胸を突き刺す。
「じゃあ、僕、先に行くから・・・」
「え、あ、待って!」
 いたたまれなくなって歩き出した僕の腕を、沙織ちゃんがつかむ。
「!」
バッ!
 僕はほとんど無意識に、彼女の手を振り払ってしまった。
「あ・・・」
 沙織ちゃんがすがるような目で僕を見る。
「ご、ごめんね、祐君・・・ただ、あの・・・私のバック、どうしたのかなって・・・」
「・・・・・・」
 『僕こそ、ごめん。』
 こんな簡単な謝罪の言葉すら口に出来ない。
 僕は、彼女に背を向けたまま
「バッグ・・・」
「えっ?」
「・・・机に、かけてあるから・・・」
 と言う事しか出来なかった。
「あ、そうなんだ。ありが・・・」
「じゃ・・・」
 沙織ちゃんの言葉をさえぎり、僕は校舎に向かって足早に歩き出した。
 後ろを向くどころか、彼女が僕の背中に言った言葉に耳を傾ける事すら・・・今の僕には
 出来なかった。
 そんな勇気が・・・無かった。


               # # #


 漠然と流れる時間。
 いつもと同じ授業中。
 そんな中に身を置きながら僕は、いつもとは違った時間の流れを感じていた。
『・・・・・・』
 落着かない。
 授業がこんなに苦痛な時間を運んで来るものだとは思わなかった。
 目の前で延々と繰り広げられる板書は、ついてこられない人のためにゆっくりとした速
 度で続けられる。いつもはその遅さがありがたいのに、今の僕にはやけにいらだたしく
 感じる。
『・・・結局、何を考えても変わらないのに・・・』
 それでも、思考の迷路は途切れない。
 答えを模索する事が無駄だと知りつつも、僕の中のあせる気持ちだけが、僕をむやみに
 急がせる。
『沙織ちゃん・・・』
 ふと、後ろを向いてみる。
 僕の三つ後ろの席。そこで沙織ちゃんは、一心不乱に机に向かって・・・
「きゃっ!」
 ・・・いなかった。
ざわざわざわ・・・
 沙織ちゃんがいきなり素っ頓狂な声を上げたため、静かな教室がにわかにざわつき始め
 た。
「何だぁ?」
「今の・・・誰?」
ざわざわざわ・・・
 ざわめきが波紋のように広がる中、騒ぎの張本人はというと・・・
かりかりかりかり
 わざとらしいぐらいノートにペンを走らせている。
 ごまかしたくなる気持ちも分かる。僕だって驚いたのだから。
『・・・まさか、沙織ちゃんもこっちを見てるなんて・・・』


               # # #


 闇の中。
 僕は、自分の心の闇にその身を浸していた。
 月島さんや瑠璃子さんの心の中で見た、誰もが持っている心の闇の中・・・そこに僕の爆
 弾はあった。
 鈍く光る金属の塊は無言で自分の存在を主張していたが、僕はその輝きを嫌悪感を持っ
 て見つめていた。
 僕がこの爆弾で月島さんにとどめを刺したのは、純然たる事実だ。
 あの時の僕は怒りに身を委ね、月島さんの記憶の中に入り、その心を微塵に砕いて滅ぼ
 した。
 その結果、僕はあの二人を、精神世界の奥底へと追いやってしまったのだ・・・
「こんな僕に・・・瑠璃子さんに想われる資格なんか・・・無いよね・・・」
 爆弾の冷たい感触を手のひらに感じながらそう思った時、
ピイィィ・・・ン
 澄んだ音色が背後に響き、僕は思わず振り返った。
「えっ?」
 僕の心の深奥に広がる闇の世界。
 そこに響くこの音に、僕は聞き覚えがある。
 ・・・これは・・・そうだ。
 雫が水面に落ちる音だ。
ピイィィ・・・ン
 美しくも寂しげに輝く水面の上。
 そこに・・・まるで心を通わせたあの時のように・・・涙の雫を落とす瑠璃子さんが立って
 いた。
「る、瑠璃子さん!」
「会いたかったよ・・・長瀬ちゃん。」
 焦点の合わない虚ろな瞳から落ちる涙の雫は、微かに微笑む唇の脇を通り、再び冷たい
 水面へと吸い込まれていった。
ピイィィ・・・ン
 思い出した。
 この音は、瑠璃子さんの心に響いていたあの音じゃないか。
「僕も会いたかった・・・瑠璃子さん、瑠璃子さん!」
 駆け出した僕は、瑠璃子さんの居る水面に向かって一直線に進んだ。
 やっぱり、あの声は瑠璃子さんだったんだ。あの電波は瑠璃子さんだったんだ。僕にさ
 さやきかけてくれたのは・・・
 涙が自然にこぼれだし、暖かく、満たされた気持ちが僕の胸に広がりはじめた。
 だが、
 僕はある事に気がついた。
 行けども行けども、瑠璃子さんと僕の間の距離が縮まらないのだ。
「・・・?」
 ゆっくり立ち止まった僕は、それから二、三歩ほど歩いてその事を確かめた。
「瑠璃子さん、君に・・・近づけないよ?」
 僕の戸惑いに満ちた眼差しを向けられた瑠璃子さんは、相変わらず水面の上に静かにた
 たずんでいる。その瞳に、一瞬動揺が移ったと思ったのは、僕の錯覚だろうか。
「・・・なぜだ?なぜなんだ!?こんなに会いたいのに・・・こんなに抱きしめたいのに!」 
 声を荒げる僕を見て、瑠璃子さんは寂しげに笑いながらこう言った。

「私・・・もう、ここに居ないもの・・・」

 分かった。
 ・・・いや、
 分かっていたよ。
 この前、瑠璃子さんの声を聞いた時に感じた違和感・・・その時胸をよぎった予感は、そ
 の言葉を聞いて確信に変わった。

「私・・・もう、ここに居ないもの・・・」

 瑠璃子さんの心は・・・この世界のものではないんだ。
 月島さんの精神世界に行ってしまった瑠璃子さんの心は、もう、この世界に干渉できな
 い所まで来ているだ。
 ・・・もう、帰れない所まで来ているんだ・・・
「そうか・・・そうなんだ。」
「うん・・・ごめんね、長瀬ちゃん。」
「謝る事なんてないよ。・・・瑠璃子さん、謝らなければならないのは・・・僕の方だよ・・・」
 胸に満ちていた気持ちが、急激に痛みに変わってゆくのを感じた。
 ルリコサンハ、モウ、ココニハイナイ・・・
 その言葉だけが、僕の脳裏をめまぐるしく回る。
「・・・長瀬ちゃん。」
 呆然としていた僕を見かねたかのように、瑠璃子さんが口を開く。
「私、長瀬ちゃんの事・・・大好きだよ。」
 僕には、その言葉の指し示す意図が良く分からなかった。
 ・・・いや、愚問じゃないか。
 いつだって瑠璃子さんは、素直な心を口にしていた。時にそれが残酷な事実を告げる言
 葉であっても、それを濁して伝えるような人じゃない。
 ずっと、僕の事を想っている。その想いを僕に伝えてくれているんじゃないか。
「・・・ありがとう、僕も・・・瑠璃子さんの事が、大好きだよ。」
 その言葉を聞いた瑠璃子さんは、再び寂しげに微笑む。細めた眉の端から、一筋の涙が
 流れる。そして、一粒の雫となって・・・
ピイィィ・・・ン
 再び、僕の心の水面を叩いた。
「長瀬ちゃん・・・」
 周囲の闇が次第に明るくなり、それにつれて瑠璃子さんの姿がどんどん薄くなってゆく。
 僕の意識が目覚めようとしている証拠だ。
「じゃあ、さよならだね。瑠璃子さん。」
 瑠璃子さんは僕のその言葉を聞いた瞬間、
「・・・・・・」
 不機嫌そうに眉を寄せた。珍しい表情だ。
「・・・いや。」
「!?」
 僕は自分の耳を疑った。
 その言葉の中には、いつもの瑠璃子さんとは思えないほどはっきりと『感情』の色がが
 あらわれていたからだ。
「私・・・長瀬ちゃんと・・・いっしょに、いたい・・・だから、だから・・・」
 消え行く瑠璃子さんの胸に、ほのかな光が灯る。
「私の・・・想い・・・気持ち・・・それだけでも・・・」
 瑠璃子さんの姿が、消えてゆく。
「残したい・・・」
 だが、その希薄な姿とは裏腹に、
「私が、生きた、あかし・・・」
 その胸の光は、どんどん強くなってゆく。
「長瀬ちゃんを想う、こころ・・・」
 その光は・・・瑠璃子さんの『気持ち』は、強い輝きとなって・・・
「この・・・気持ち・・・」
 僕の心を、暖かい光に満たしていった。
「おなじ、こころに、つたえ・・・た・・・い・・・」


               # # #


 「!!」
がばっ!
「・・・はぁっ・・・はぁっ・・・はぁ・・・」
 苦しい息の下、夢の中を漂っていた意識が次第にはっきりしてくる。
「・・・はぁ・・・」
 飛び起きた拍子に、傍らに置いてあった鞄がベッドの上からずり落ちた。
どさっ・・・
 どこか現実離れした音が、夜の闇に染まった僕の部屋に響く。その音を聞きながら僕は、
 自分が学校から帰ったままの姿でベッドに倒れ込んだ事を思い出した。
 はみ出したワイシャツの襟が、僕の頬をくすぐる。
「・・・夢・・・か・・・」
 夢。
 あの時から・・・瑠璃子さんと別れたあの夜から見始めた、夢。
 何度も何度も、僕は瑠璃子さんへの想いの数だけこんな夢を見続けた。
 時々見る、僕の、想いの残滓・・・
チリッ・・・
 でも・・・さっきの夢は、違う。
 いつもと違う。
「・・・!」
チリッ・・・チリチリッ・・・
 電気。
 頭の中を走る、電気。
「まさか・・・?」
チリチリチリ・・・
「この感覚・・・この感じ・・・」
 まるでこの前のように、霧がかかった頭を紫電が駆けぬける。そして、脳裏に浮かぶ映
 像(ヴィジョン)。
「ここ、は・・・」
 学校。
 体育館。
 そこで、
「・・・泣いて・・・る・・・」
だんっ
 全身を突き抜ける衝動に従い、部屋のドアを開けて階段を駆け降りる。
 いつもと違う夢を見て、
 確かな電波を感じて、
 ・・・そして、知った。
『泣いてる・・・会いたいって、想いを伝えたいって・・・泣いてるんだ!』
 僕は、夜の学校に向かって駆け出した。狂おしいほど僕を想っている・・・「あの人」に
 ・・・会うために。


               # # #


 駅前を通った時、時計屋の看板は9時半を指していた。
 普通に考えるなら学校に入れる時間ではない。が・・・今の僕には、奇妙な確信があった。
 誰かがいる。
 誰かが学校で、僕を待っている。
 きっとそれは・・・瑠璃子さんだ。
 いつもの僕なら、
 「そんなはずは無い。」
 と思ってしまう所だが、確かな瑠璃子さんの電波を感じた今の僕にとって、そんな考え
 は微塵も浮かばない。
 そんな疑問が僕の胸に湧き上がり始めたのは、
「・・・るりこ・・・さ・・・ん・・・」
 紫がかった月光に照らされ、不気味に立ち尽くす夜の校舎を目のあたりにした時だった。


               # # #


 キイィ・・・
「・・・開いてる・・・」
 背筋を凍らせるような音と共に正門の鉄柵扉が動く。
 扉どうしの隙間に体を滑り込ませ、改めて正面から校舎に対峙した僕は、その校舎の放
 つ異様な存在感に気おされていた。
 漆黒に彩られた窓は薄紫の月光を弾き、まるでこの世ならざるものの宴を映し出してい
 るかのように見える。そんな不気味な空気を助長するかのように、凪のような静寂が周
 囲を満たしていた。
「・・・」
 ついさっき・・・学校に着くまでに自身を満たしていた高揚感はどこかに失せ、うって変
 わって沸き上がった不安が僕の胸中を駆け巡る。
 僕を待っているのは、誰なんだろう。
 瑠璃子さん・・・な訳はない・・・はず、だ。はず、だが・・・やっぱり、どう考えてもあの電
 波は、瑠璃子さんのものだ。じゃあ・・・
「・・・幽霊・・・?」
 頭を振って嫌な想像を振り捨てる。
「そんな馬鹿な・・・瑠璃子さんは、まだ生きているじゃないか・・・」

『あれで・・・』
 何かが僕の中で囁く。
『・・・生きていると、言えるのか?』

 それは、僕の本心。
 その言葉は瑠璃子さんの事を思うたびに、突き当たる壁・・・冷たく、大きく、無慈悲な
 壁。
 だから「ここで瑠璃子さんが待っている・・・瑠璃子さんは、そこに存在しているんだ!」
 と感じた時の僕の喜びは、計り知れないものだった。
 でも、瑠璃子さんは居ない。
 僕の想いは、遂げられない。
 彼女の想いも、遂げられない。
 心が通じ合うからこそ・・・分かり合っているからこそ、なお辛い。

 再び陥る思考の迷路、
 思い知らされる無力、
 その全てが繰り返される。
 かすかな電波を感じるたび、
 思い出の欠片を見つけるたび、
 僕は自分を縛り付けてしまう。
 『瑠璃子さん』と言う、優しい記憶に逃げ込んでしまう。

「はは…は、はは…」
 僕は、笑った。
「ははははは、はは、ははは…」
 自分の無力さと、勇気の無さと、かりそめの進歩に酔っていた自分に気付いて。
 何も変わっていない、自分を狂気の縁に追い込んでいた頃の自分・・・それを越えてなお、
 何も変わらない自分を笑った。
 涙が零れ、
 足は震え、
 口からは乾いた笑いだけが漏れる。
 それでも僕は、笑い続ける。
 当たり前の世界のきらめきを教えてくれた瑠璃子さん、
 彼女を想うあげくにその世界を捨てしまおうとしている自分。
「…馬鹿だ、馬鹿だよ…僕は…」
 好きな人の願いを踏みにじってでも、自分の想いを貫こうと言うのか…遂げられない想
 いと知っていながら!彼女が想ってくれていると言う事実に甘えて!
「こんな…こんな僕なんか!!」
 自分を責める心の叫びが、電波となってあふれだそうとしたその刹那、



・・・ヂリッ



「!…そ、そんな…」
 ・・・僕はその時、とうとう自分が狂気の扉を開いてしまったのだと思った。
 感じるはずの無い瑠璃子さんの電波を感じ続けて、おかしくなってしまったのだと思っ
 た。
 でも、違う。
 脳を直接焼かれるような強烈な電波。この電波からは、やはり瑠璃子さんの感じがした
 のだ。
 先程感じた確信が再び胸に灯る。
 あふれる涙をぬぐい、僕はその電波が指し示す場所へと向かった。
 高揚とない交ぜになる絶望。自分すら信じられない戸惑い。その全ての答えを求めるた
 め、僕は歩き出す。
「・・・あっ・・・」
 校舎の裏手をのぞいた時、僕は思わず声を上げてしまった。なぜなら、夜の闇に浮かぶ
 第二体育館が、僕の想像していた姿と違っていたからだ。
「明るい…」
 煌煌と照る灯かりは、今の僕にとって無上の安堵感を与えてくれた。
「誰か・・・いるんだ・・・」
 誰だろう。
 誰なんだろう。
 彼女じゃないなら・・・いったい誰なんだろう。
 その答えを知るため、僕は体育館のドアに手をかけた。


               # # #


 そこには、なにも無かった。
 閑散とした体育館の中を、天井一杯に配置された照明の光だけが満たしていたのだった。
 人影は、何処にも見えない。
「誰も・・・居ない?」
 そう呟きながら体育館の中央に歩み出る。
ヂリッ
「っ・・・」
 強い電波、
 不明瞭な声、
 それらが突然、僕の中に飛び込んで来た。
「・・・?」
 強烈な電波は近くに誰かがいる事を示し、こもったような声は、その人が壁か扉を隔て
 たところに居る事を教える。
 僕の感覚が指し示す場所は・・・
「・・・用具・・・室・・・?」
 僕の切ない思い出の場所・・・そこから電波は流れているらしい。
ヂリッ
「・・・くぅっ・・・」
 再び、僕の中に飛び込んでくる電波。
「間違い無い!」
 憶測を確信に変えて用具室に歩み寄る。
 両方の取っ手に手をかけ、横開きの扉を力任せに開けようとした時、再び声が聞こえた。
 その声は今までと違い、明確な意味を僕に示すものだった。

「ゆ・・・ゆう、くん・・・」

 僕は自分の耳を疑った。
 その声は、僕が良く知っている声だったからだ。
 そして、その声の人物は僕を呼んでいた。
 ここに居るはずの無い、僕を・・・
カラカラッ・・・
『しまった!』
 そう思った時には、すでに扉は僕の手を離れ、金属製の敷居の上を滑らかに移動してい
 た。
 薄暗い用具室にすうっと光が差し込む。
「ひっ・・・」
 息を呑む声に引き寄せられるように、僕の視線が捉えたものは・・・
「あっ・・・あぁ・・・」
 沙織ちゃんだった。
 丸くなった目で僕を注視していた彼女は、しゃくりあげるように呼吸を乱しながら、体
 育着の裾をちぎれんばかりに引っ張っていた。
 闇の中にうっすらと浮かぶ、自身の下半身を覆い隠すように。
「さ、さお・・・り・・・ちゃ」
「いやああぁぁぁ!」
 絶叫にも近い悲鳴と共に、紅潮した頬がいっそう紅く染まって行く。
「来ないで!来ないで!来ないで!こないでぇ!!」
 僕は、意図的に沙織ちゃんから目をそらした。だが、それはかえって逆効果となってし
 まったようだ。なぜなら、僕の視線の先には、沙織ちゃんのものとおぼしき赤いブルマ
 が転がっていたからだ。
「あ・・・」
 それを凝視してしまった僕は、改めて事態の重大さを知った。
 そして、そんな思いとは裏腹に、頬が今までに無いくらい熱くなってゆくのを感じてい
 た。
「・・・見ないでぇ・・・」
 か細い声が聞こえる。
「あ、え?」
「見ないでよぉ・・・そんなもの・・・」
 一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかったが、弱々しく差し示す指がブルマに
 むいている事を知って、僕は扉の外に体を向けた。
 まだ心臓が早鐘を打っている。
「ひっく・・・ふ・・・ぐぅっ・・・」
 鳴咽をもらし、苦しい息の下から何かを言おうとしていた彼女は、一回、大きく息を飲
 んで、うつむきながらこう言った。
「何で・・・ここにいるの・・・」
「・・・あ、あの・・・」
「なんでここにいるのぉ!」
 控えめな釈明の言葉は、彼女の絶叫にかき消された。
「なんで!なんで!なんでよぉ!!」
 次第に声を荒げる沙織ちゃんは、恥ずかしさを打ち消すための怒りを僕にぶつけている
 ようだった。だが、それも長くは続かないらしく、
「何で・・・なんでよぉ・・・」
 そんな抗議の声も、沙織ちゃん自身の荒い息が覆い隠してしまった。
「あ、あの・・・」
 何かを説明しなければ、と思う気持ちだけが空回りしてしまい、僕は何も言えなくなっ
 てしまいそうだった。
「・・・ご、ごめん!」
 結局出てきたのは、ありふれた謝罪の言葉だった。
「謝ってもすまない事だけど・・・の、覗くつもりじゃなかったんだ!ただ、その、・・・声
 がして・・・だから・・・誰か、居る、かなぁっ・・・て・・・」
 たどたどしい言い訳を続けているうちに、僕は沙織ちゃんが何かを呟いている事に気付
 いた。
「し・・・ちゃ・・・よぉ・・・」
「・・・?」
 恐る恐る後ろを振り向いてみると、両手の平といわず甲といわず、その小さな手の全て
 を使って涙を拭っている沙織ちゃんが居た。
 か弱く、はかなげな彼女の肩は、しゃくりあげるたびに大きく上下に動き、彼女の心の
 動揺をそのまま映している。
「あたし・・・気ぃ・・・くるっちゃったよぉ・・・」
 泣きながらそう呟く沙織ちゃんを見たとたん、僕の胸は激しく痛んだ。
 まるで、あの時・・・僕の手を握った沙織ちゃんが虚ろな笑いを浮かべた、あの時のよう
 に。
「どんどん・・・あたし・・・変になっちゃう・・・」
 涙が古びたマットをどんどん濡らしてゆく。
「祐くんの夢ばっかりみたり・・・居ないはずの祐くんの事が分かったり・・・祐くんの事考
 えたら・・・えっちな事で頭がいっぱいになっちゃって・・・前なんて・・・自分でも・・・知ら
 ないうちに・・・祐くんに・・・キス・・・しようとしちゃったり・・・」
 泣きながら自分を追いつめてゆく沙織ちゃん。それを見て僕は、言いようの無い既視感
 (デジャビュ)を感じていた。
「もう・・・あたし・・・祐くんの前に居たくない・・・」
 その既視感の理由を、僕は知っている。
「祐くんの事好きになるたび・・・あたし、変になっちゃう・・・幻を見るようになって・・・変
 な事ばっかり考えて・・・どんどん・・・エッチに・・・なって・・・」
 彼女は、僕だ
 僕自身なんだ。
 不安と矛盾にさいなまれる、僕自身だったんだ。
「あたし・・・知ってる・・・」
「・・・何、を・・・?」
「祐くんに・・・好きな人が居る事・・・」
 微かな痛みが胸を襲う。
「前から見る夢・・・時々見る幻・・・その中で、祐くんは・・・いっつも、あの人と一緒なんだ
 もんね・・・」
 再び、涙の雫がマットを叩く。
「不思議な瞳をした、女の子・・・きっと、祐くんとあの子は、恋人同士なんだなって・・・私、
 なぜか・・・知ってたの・・・」
 涙に濡れた瞳を閉じて、沙織ちゃんは顔を上げた。きっと、懸命に目を開こうとしてい
 るのだろう。
 だが、
 次から次へと溢れ出す涙はそれをよしとしなかった。
 薄く開かれた目からは、まるで小さな川のような涙が流れている。
「こんな・・・おかしな女の子・・・祐くんに好かれる資格なんか、無いよね・・・こんな・・・祐
 くんの事を想って・・・こんなとこで・・・しちゃう・・・変態みたいな・・・子・・・!」

 息を飲む声が、耳元で響く。

 気がついた時、僕はその言葉を遮って、沙織ちゃんを抱きしめていた。
 甘い香りが、僕の胸を満たす。
「ゆ、ゆう・・・くん・・・」
 狼狽した彼女は、次の瞬間両手を僕の胸について懸命に離れようとした。
「いやっ!やぁ!はなしてぇ!!お願い、お願いだから!はなして!祐くん!」
 力の入らない腕を払いのけ、僕は強引に沙織ちゃんを抱きしめた。
 しっかり、さっき以上に力強く。
「いやぁ・・・やめて・・・」
 弱々しく手を僕の肩にかける。押す力は、無きに等しいほどだった。
「・・・もう・・・これ以上・・・優しくなんて、しないで・・・」
 力無くずり落ちる腕。
「私なんて・・・あのまま・・・あいつの奴隷になっちゃえば・・・良かったの・・・に・・・」
 僕の肩に、がくりと頭を預ける沙織ちゃん。熱い涙が、まるで肩を灼くかのように流れ
 る。
「ほんとに・・・助けに来てくれる、なんて・・・思わなかった・・・だから・・・」
 弱々しいままの腕が、僕の肩にまわされる。さっきとは違う、まるですがりつくような
 腕・・・
「あたしは・・・もう、十分だよ・・・だか・・・ら・・・あの子・・・の・・・所・・・に・・・」
「・・・違うよ・・・」
「えっ?」
 不意に僕を見つめる、頼りなげな瞳。その奥に光るものは・・・狂気。その狂気を封じ込
 めるかのように、強引に唇を重ねあわせた。
「!」
 弾けるように体を固くした沙織ちゃんは、しかし、徐々にその身を僕に委ね、それとは
 逆に巻き付けた腕には力が戻ってきているようだ。
 僕は、目を固く閉じたまま、沙織ちゃんの体の全てが預けられるのを待った。

 体を駆け巡る電気の粒を感じながら、僕は知った。
 この子も・・・沙織ちゃんも・・・「素質を持つもの」だと言う事を。
 やはり僕たちは・・・『同じ』なんだと言う事を。

 体を預け、抱きつく沙織ちゃん。
 その柔らかい唇を割って、舌を差し入れる。
「ん・・・ふぅ・・・」
 おずおずと舌の先を差し出す彼女の恥じらいに、僕は頭の中がしびれるような感覚を覚
 えた。
 ぐいっ
 強引に舌と舌を重ねる。
「!ふ、はぁ・・・」
 隙間からあふれる吐息が、彼女の中の高ぶりを示して余りある。
 しばらくじゃれ合う舌と舌。
つうっ・・・
 どちらからともなく離した唇同士を、月光を受けて銀色に輝く糸が繋いだ。
「・・・えっちぃ・・・」
 上目遣いに僕をにらむ沙織ちゃんは、今まで見た彼女の表情の中で最高のものだった。
「ファーストキス・・・なのに・・・」
「え、あ・・・」
 意外な反応をされて、僕自身もすっかり戸惑ってしまった。
「祐くんって・・・こんなにえっちだったんだぁ・・・」
「し、しょうがないじゃないか・・・」
「え?」
 覗き込む沙織ちゃん。一気に顔が上気してしまう。
「沙織ちゃん・・・すごく、かわいいんだもの・・・」
「ゆ、祐くん・・・」
がばっ
 おもむろに抱きついてくる沙織ちゃん。その大胆な行動とは裏腹に、僕の耳に小さく言
 葉を呟いた。
「ねぇ・・・祐くん」
 一瞬の、間。
「あたしで、いい・・・の・・・?」
 涙に潤んだ瞳を僕の肩に押し付けながら、言葉を続ける。
「あたし、祐くんと一緒で、うれしい・・・すっごく嬉しいの・・・でも、ひょっとしたら・・・
 祐くんはあの子と・・・一緒の・・・ほう・・・が・・・だって、二人は、あ、あいし、あって・・・」
 じょじょに涙声になってくる沙織ちゃんの声。
「祐くん・・・あたし、祐くんと一緒に居たい!ずっと一緒に居たいの!!でも、でも、祐く
 んの中の、あの子が、大きくって・・・祐くんがどれだけ、好きなのか・・・分かっちゃう
 の!」
 不安に震える腕が、僕の体を捕らえて離さない。
「・・・ねぇ、祐くん。」
 そう言って顔を上げて、僕を見つめる沙織ちゃん。その顔には、ある確かな決意が浮か
 んでいた。
 と、その時。

『大好きだよ』

 僕の頭を駆ける紫電の電波。その電波は、僕がこの前からずっと感じ続けているものに
 間違いなかった。
「!これ、は・・・」
 間違いない、これは・・・

 瑠璃子さんの、電波。

「沙織ちゃん!君は・・・」
「・・・ふふっ・・・」
 微かな微笑み。
 その虚ろな微笑みは、僕の頭を麻痺させるほどに美しく、同時に、寒気がするほどはか
 なげな笑みだった。
「いつからかな・・・誰かが、あたしの中に入ってきて・・・こう言うの。『長瀬ちゃんが好
 き?』『長瀬ちゃんに・・・抱かれたい?』」
 誰か?
「あたしが、『うん』って答えると・・・笑いながら『じゃ、一緒だね』って・・・」
 誰か・・・
「だから、あたしも『一緒なんだ』て言ったら・・・」
 決まっている・・・
「『じゃあ、一緒になろう。私も、長瀬ちゃんが大好きなの。』そう言って、あたしの奥
 に入ってくるの。奥に、奥に・・・」
「沙織ちゃん、それって・・・」
「うん。その時、分かった・・・そして全部、思い出したの。この人が、祐くんの好きな人
 ・・・」
 さっきとは違う、暖かい微笑みを浮かべる沙織ちゃん。
「・・・瑠璃子さん、なんだなぁって・・・」
 優しくそう告げる彼女の表情に、迷いの色は無かった。ただ、何かを愁うような深い哀
 しみがその笑顔を微かに曇らせている。
「ねぇ、祐くん。」
「?」
「瑠璃子さんも、祐くんに会いたいって思ってる。でも、お兄さんと一緒にいるから、祐
 くんとは一緒にいられないの・・・」
「・・・うん。知ってる、よ・・・」
「瑠璃子さんはね・・・」
 沙織ちゃんは僕の肩に頭をもたれかけさせる。
「その想い・・・気持ちだけでも・・・伝えたいって・・・思ってる。だって、それは・・・」
 僕に抱き付く腕に力が入る。
「あの子の・・・瑠璃子さんの、生きた証なんだから・・・」
パタタッ
 涙がマットの上に落ちる。
「・・・微笑みながら・・・泣いてる・・・瑠璃子さんの・・・」
パタパタタタッ
「大事な、だいじなきもち・・・でも・・・あたしも・・・祐くんの事が・・・あたし、どう、どう
 したらいい、の、か・・・」
 流れ続ける涙の下、沙織ちゃんは僕に瑠璃子さんの想いを伝え続けた。
 だけど、その涙は瑠璃子さんのものじゃない。沙織ちゃんの、瑠璃子さんの気持ちを受
 け取った沙織ちゃん自身の、哀しみと戸惑いの涙なんだ。
「明日・・・を・・・見られない・・・るりこ・・・さ・・・ん・・・あの子も、祐くんの・・・事・・・」
 人のために涙を流せる沙織ちゃん。
 人のために自分の想いすら殺してしまいそうな沙織ちゃん。
 そんな彼女だからこそ、瑠璃子さんは自分の気持ちを伝えたかったんだろう。
 ・・・そして瑠璃子さんは自分の気持ちを沙織ちゃんに託し、「電波」の存在を彼女に知
 らせ、目覚めさせた。

 それは、
 瑠璃子さんの唯一の「執着」であり、
 僕を狂気に繋ぎ止める「枷」である、
 互いの「想い」を断ち切る為の儀式。
 思い出と言う名の過去を、断ち切るための・・・切なく、哀しい決意。

「ごめんね・・・」
「えっ?」
 いつまでも心配をかけている瑠璃子さんと、
「色んな思いをたった一人で抱えていたのに、気がつかなくって・・・ごめん、沙織ちゃん・・・」
「祐くん・・・」
 涙に潤んだ瞳を上げた沙織ちゃん。
 その月光の下でピンクに光る唇にもう一度くちづけをしながら、僕は沙織ちゃんを抱き
 しめる腕に力を入れる。
 もう迷わない。
 もう哀しまない。
 もう過去に戻りたいなんて思わない。
 瑠璃子さんのため、沙織ちゃんのためにも・・・
「・・・んっ・・・む・・・」
 互いの吐息が唇の隙間から漏れる。その焼けるような熱さが、僕と沙織ちゃんの距離を
 一層近づけていると感じた。
「ぷはっ・・・は・・・ぁ・・・」
 唇を引いた沙織ちゃんが、瞳を閉じてうっとりとため息を吐く。その瞳が開かれた時、
 その複雑な輝きに僕は魅せられた。
 狂気と勇気、
 哀しみと喜び、
 そして二人分の想い。
 その全てが幾重にも折り重なった輝き。
 僕が今まで感じた事の無い色彩が、彼女の中に生まれていた。
 いつも元気で、前向きな彼女だからこそ、この感情の奔流に今まで耐えていたんだろう。
 ・・・僕に「助けて」と・・・「好き」と・・・伝えたかっただろうに・・・
「・・・僕の過去を救ってくれたのは、瑠璃子さん・・・だけど、一緒に未来に向かえるのは・・・」
 勇気と決別を以って、僕は告げる。
「沙織ちゃん・・・君だよ・・・」
「・・・」
 徐々に瞳が澄んでゆく。
 あれだけ雑多な思いに濁っていた瞳は、僕を見つめる内に徐々に澄んだ色をたたえてい
 った。
ふっ
 暗雲が月を隠し、一瞬だけ世界が静寂に包まれる。
・・・ぱぁっ
 再び、月光が沙織ちゃんを照らした、その時・・・
「決めた・・・二人分、まとめて言っちゃう!」
 僕は、その時の、彼女の瞳を忘れない。

「大好きだよ、祐くん。何よりも・・・誰よりも!」

 そう言った沙織ちゃんの瞳は、紅く澄んだ目をしていた。まるで、あの日屋上で見た夕
 日のように。



 夕日の赤。
 溶鉱炉の中の金属が、飴色になって溶け落ちるような赤。
 火花の赤、
 線香花火の赤、
 奇麗で、鈍い赤
 そして、狂気の赤。
 奇麗な、それでいて狂ったような深紅の光・・・その中には、確かな意志が息づいている。
 夕日を見つめる時、人は何を思うだろう。
 一日が終わる事への悲しみや、雄大な世界に放り出されたかのような切なさ・・・でも、
 それだけじゃないはずだ。
 きっと、誰もがその夕日に願ってる。
 いつもの明日が来る事を、そして、その明日が、今より少しだけ幸せな日である事を。
 虚ろな願い。
 裏切られる祈り。
 でも、人は願い続ける。
 「しあわせで、あるように」と・・・



「うん・・・僕もだよ、沙織ちゃん・・・」
 僕が、共に幸せを紡ぐ人。
「僕も・・・大好きだ。」
 その人は、今、ここに居る。
 戸惑う僕の背中を押してくれたあの子の想い、迷う僕の手を引いてくれた、この子の想
 い・・・二人の想いに導かれ、僕の心は澄んでゆく。
 狂気と希望の狭間の紅に灼かれるように、紅く、紅く・・・澄んでゆく。
「ありがとう・・・祐くん・・・」
 涙を流す沙織ちゃん。でも、今までの涙と違う事は容易に分かる。
 優しく微笑む彼女の肩を左手でそっと抱いて、僕は彼女を寝かし付けるかのように、ゆ
 っくりと後ろに倒れ込む。
「きゃっ」
 小さい悲鳴が僕の耳元で弾ける。
 二人の顔は、ちょうど窓から差し込む月明かりの届かない位置にあった。マットのほこ
 りが、美しく宙に舞う。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 少しの沈黙。
 しかし、不安は感じない。
「・・・これじゃ、祐くんの顔が見えないよぉ・・・」
「そう?・・・それじゃあ・・・」
 僕の左に寝る沙織ちゃんに、覆い被さるかのように体勢を変える。薄い闇の中に、沙織
 ちゃんの微笑みが見える。
「・・・どう?」
「うん、祐くん、だ・・・」
 ゆっくりと僕の肩に伸びてくる腕。
「でも、沙織ちゃんの顔が・・・良く見えないな・・・」
「・・・じゃあ、」
 きゅっ、と首にかかる重み。
 そして、薄闇の中から僕に近づく微笑み。
「こう、しよ・・・」
「・・・うん・・・」
 初めての沙織ちゃんからのキスは、首にまわされた火照った腕よりも、熱く、情熱的だ
 った。


               # # #


 「はあ、はあ、はあ、」
タンタンタンタン
 息が弾む。
「はあ、はあ、はあ、」
タンタンタンタン
 足が重くなる。
「はあ、はあ、はあ、」
タンタンタンタン・・・
 コンクリートの階段の一段一段を、僕のスニーカーが叩き続ける。
 その単調な音は僕の意識をぼんやりとかすませ、己を突き動かす衝動と、それを受けて
 戸惑う理性の葛藤をうながした。
 「何故、僕は走っている。」
 二階を過ぎて、
 「決まってる、決まってるじゃないか・・・」
 三階を越えて、
 「この電波は・・・間違いない、居るんだ!彼女が!!」
 屋上への扉に手をかけて、
 「そこに・・・そこに居るんだね!」
 重い金属の扉を力の限り引いた。
 外から吹き込んでくる風は、突風となって僕を襲った後、背中で渦を巻いて消えた。そ
 んな狂暴な風につぶった目を開くと同時に、僕は愛するその人の名を叫んだ。

「沙織ちゃん!!」

 風の残滓の向こう側、
 あの時と同じように世界を紅に染める夕日の中、金網を見つめていた少女はゆっくりと
 振り返って・・・
 髪をかき上げ、優しく微笑んだ。
 いや、
 あの時と同じ、じゃない。
 そこに立つ少女は・・・かけがいの無い、僕の未来。
「えへへ・・・やっぱり、来てくれた。」
 片目をつぶりながら、舌を出す愛くるしい仕種。
 『会いたい』と告げる切なさを隠す、いつもの微笑み。
 その全てが違っていて・・・でも、何かが同じだった。
「・・・当たり前だよ、」
 ゆっくりとその少女に歩み寄るたび、記憶の奔流が頭の中をよぎる。



 あの夜、深夜の学校で二人は思いを通じ合わせた。だがその結果、沙織ちゃんは僕と瑠
 璃子さんの電波の影響で、完全に『目覚めて』しまった。
 感受性の強い彼女なら、十分にありえた話ではある。
 ・・・それにしても不思議なのは、何故彼女は月島さんの強力な電波に操られた時に『目
 覚めて』しまわなかったのだろう。
 考えられる理由は二つ。
 一つ目は、相手を強く想う事が覚醒させる鍵である事。
 二つ目は・・・沙織ちゃんの記憶から憶測すると・・・沙織ちゃんは月島さんと、直接交わっ
 てはいない、と言う事。
 月島さんに操られた二人に責め続けられたため、計らずしも女性の手で処女を失ってし
 まった沙織ちゃんだが、正確に『交わった』のは・・・僕が・・・その・・・



「・・・あたしの『初めての人』だもん、ね・・・」

「な・・・!」
 大胆な口調に、僕の心臓が跳ね上がる。
「や、やめてよ、沙織ちゃん・・・」
「え〜、だって・・・勝手に流れ込んでくるんだもん。」
「・・・はぁ・・・」
 夕日の光がなければ、僕の頬が真っ赤に火照っている事を知られてしまっただろう。そ
 れとも、敏感に電波を感じ取る事が出来るようになった沙織ちゃんには、もう、分かっ
 てしまっているのだろうか。
「祐くん・・・」
 その想いを知ってか知らずか、沙織ちゃんも僕に歩み寄ってくる。
「ごめんね、こんな所に呼び出したりして・・・」
 伝わる、想い。
『この夕日・・・一緒に、見たかったから・・・』
「ううん、いいよ。」
 応える、心。
『僕も、そう思った・・・沙織ちゃんと一緒に、この夕日を見たいって・・・』
 僕の目の前で、開こうとしている扉。
 狂気。
 日常。
 過去。
 未来。
 その全てが灼けるような紅の中に溶け込んだ・・・『明日』への、扉。
 紅い、紅い・・・夕日の扉。
 その夕日の中に溶けるように、二つの影は一つになる。
 右手に抱いた細い肩が、たった今まで孤独に震えていた事を知って、僕は彼女を体ごと
 抱き寄せた。
「あっ・・・」
 それ以上、言葉は出ない。
 出なくとも分かる。
 感じなくても・・・分かる。
 僕の腕の中でうっとりと瞳を閉じて、胸に頭をあずける沙織ちゃん・・・そんな彼女の穏
 やかな笑みを見るだけで、僕は満たされてしまう。

 時に激しく、時に穏やかに互いを求め合う二人は、もうすぐ訪れる初夏の兆しの中で一
 つになる。
 そうやって・・・あの子が望んだ未来も、この子の得た過去も、僕が見つめる現在(いま)
 も・・・僕たち自身すら、やがては境目も無く一つに溶け合うのだろう。



 狂ったように赤い、紅い安らぎの中で。



                 END


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黷髣摎Rは二つ。  一つ目は、相手を強く想う事が覚醒させる鍵である事。  二つ目は・・・沙織ちゃんの記憶から憶測すると・・・沙織ちゃんは月島さんと、直接交わっ  てはいない、と言う事。  月島さんに操られた二人に責め続けられたため、計らずしも女性の手で処女を失ってし  まった沙織ちゃんだが、正確に『交わった』のは・・・僕が・・・その・・・ 「・・・あたしの『初めての人』だもん、ね・・・」 「な・・・!」  大胆な口調に、僕の心臓が跳ね上がる。 「や、やめてよ、沙織ちゃん・・・」 「え〜、だって・・・勝手に流れ込んでくるんだもん。」 「・・・はぁ・・・」  夕日の光がなければ、僕の頬が真っ赤に火照っている事を知られてしまっただろう。そ  れとも、敏感に電波を感じ取る事が出来るようになった沙織ちゃんには、もう、分かっ  てしまっているのだろうか。 「祐くん・・・」  その想いを知ってか知らずか、沙織ちゃんも僕に歩み寄ってくる。 「ごめんね、こんな所に呼び出したりして・・・」  伝わる、想い。 『この夕日・・・一緒に、見たかったから・・・』 「ううん、いいよ。」  応える、心。 『僕も、そう思った・・・沙織ちゃんと一緒に、この夕日を見たいって・・・』  僕の目の前で、開こうとしている扉。  狂気。  日常。  過去。  未来。  その全てが灼けるような紅の中に溶け込んだ・・・『明日』への、扉。  紅い、紅い・・・夕日の扉。  その夕日の中に溶けるように、二つの影は一つになる。  右手に抱いた細い肩が、たった今まで孤独に震えていた事を知って、僕は彼女を体ごと  抱き寄せた。 「あっ・・・」  それ以上、言葉は出ない。  出なくとも分かる。  感じなくても・・・分かる。  僕の腕の中でうっとりと瞳を閉じて、胸に頭をあずける沙織ちゃん・・・そんな彼女の穏  やかな笑みを見るだけで、僕は満たされてしまう。  時に激しく、時に穏やかに互いを求め合う二人は、もうすぐ訪れる初夏の兆しの中で一  つになる。  そうやって・・・あの子が望んだ未来も、この子の得た過去も、僕が見つめる現在(いま)  も・・・僕たち自身すら、やがては境目も無く一つに溶け合うのだろう。  狂ったように赤い、紅い安らぎの中で。                  END
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