風が吹く。 潮を含んだ風、海の風だ。 青紫の海を渡り、朱に染まった空を駆け抜けて来るこの風は、静かに夕凪の終わりを告 げて来る。 そんな爽やかな風の中、俺は白い木づくりのテラスで、この出来すぎな風景の中に視線 を遊ばせていた。 「何してんの。」 独特のイントネーションに振り向くと、いいんちょ… おっと、 …智子が立っていた。 白いノースリーブのワンピースが、ちょっと野暮めなお下げにとても良く似合っている。 「ん?」 そのお下げのかかっている肩口・・・ワンピースの肩の紐の下に俺は、かすかに残ってい る白い筋を見つけた。 「ははっ…肩紐の跡、残ってるぜ。」 「えっ!ほんま?」 慌てて肩紐をずらしてみる智子。…正直言って、とても目の毒な光景だ。 「ほんまや!あ〜あ、こんなんなるのが嫌やったから、水着も選びに選んだのに…もう…」 海から上がった後も、俺達はしばらく海岸の近辺を散策していた。おそらく、その時に ついた日焼け跡なのだろう。大き目の麦藁帽子も、しよせん空しい抵抗だったと言う訳 だ。 「な、何にやついてんねや。」 俺の視線に気付いた智子は、軽く頬を染めながら肩紐を上げた。 『う〜ん色っぽい…』 そんな智子を見ていると、ちょっといじめてやりたくなる。 「いや…俺はあの水着、うれしかったぜ。寝てるとこ起こされた時なんかさぁ、こぅ、眼 前にバーン!と白いミルクタンクが…」 「なっ…」 瞬間的に智子の頬が赤く染まる。 「なな、何考えとんねん!」 「わりぃわりぃ、」 「全くもう…本当にスケベェなんやから…」 俺に文句を言いながらも、俺を見る彼女の瞳は何となく嬉しそうだ。 「…なぁ、こっち来いよ。」 「えっ?」 俺の右には、俺が座っているのと同じ形の木製の肱掛椅子がある。色は、テラスと同じ 白。ペンションのマスター(って言うんだろうか?)の趣味の良さが顕われたチョイスだ。 「な。」 そう言って椅子を親指で差すと、智子は首を横に振る。 「…さっきも言うたけど、私は景色を見にここに来たんやないで。」 「ちぇっ、」 「…せやから…」 智子が視界から消えた。 その次の瞬間、 ふわっ… 甘い香りと共に、後ろから、俺の首に智子の腕がからむ。右肩にかかった重さから、さ さやくように優しい声が聞こえてきた。 「こうしていたいんや…ええやろ?」 吐息とともに運ばれてきた言葉は、気丈な智子には珍しいほど甘えた声だった。 トクン ふいに胸が苦しくなる。 「…ああ…」 波の音をBGMに、俺達はしばらく互いの両手を握り合いっていた。 「…なぁ、智子。」 「ん?何や?」 智子の髪をもてあそびながら、優しい表情の彼女を見上る。 「…やっぱり、皆に…言おうか?」 「………」 「俺達の…こと、さ…」 智子と俺は、あの雨の夜から恋人同士の関係になった。 時々衝突したり、誤解もしたりしたけれど、それも全て終わってしまえば思い出だと言 い切る事ができる。 しかし… 気のせいか、智子は周囲に俺達の事を知られたくないようだ。 べたべたするのが嫌いなのか、とも思ったけれど、たまにデートに出かけるとまるで甘 えん坊のように俺に寄り添ってくる。 ちょうど今みたいに。 だから、智子は学校にいる間だけ、俺と一緒にいる事を遠慮しているように思えるのだ。 その理由は分からないが… いや、 思い当たる事は、ある。一つだけ…ある。 ひょっとして、智子は… 「ええよ、別に…」 そうつぶやきながら、智子は、俺の手をすり抜けて静かに立ち上がった。 すっ 肩から智子の温もりが消える瞬間、俺の胸が、寂しさに痛んだ。 「だって…」 「?だって…何?」 「私、な…気づいてしもたんや…」 テラスの手すりに手をついて、遠くを見つめる智子。屋上で俺を待っている時の、あの ポーズだ。 「何だよ。」 「…神岸さんの、事…」 「あかりの事?」 俺の脳裏に、ふっ、あかりの顔が浮かび、 同時に、ある言葉が口をついて飛び出しそうになる。 『やっぱり…』 と。 「知っとる?私とあんたが一緒に居る時、神岸さん…とってもさみしそうな顔してんねや で…」 「………」 俺はそれには答えず、ただ沈黙していた。 沈黙するしかなかった。 「帰る時もそうや。私んとこに来るあんたの背中を、神岸さんはじー…っと見とんのやで。」 胸が痛む。 さっきとは違う…鈍く、のしかかるような痛み。 「確かに、私…あんたと一緒にいたい。せやけど、それは、神岸さんからあんたを奪う事 になってしまう。」 目の前に突きつけられた現実が、胸の痛みとなって俺を責める。 だが、 その事実から逃げ出す事は出来ない。これ以上目を背けるわけにはいかない。 智子が、俺に、勇気を持って告げてくれた事だから… 「…そう言う事にニブい私でもわかる。あんたは…神岸さんにとって…ただの幼なじみや ない、神岸さんにとって…あんたは…」 「そうだな…」 言葉を続けようとする智子を遮って、俺は一言、つぶやいた。 「?」 こっちを振りかえる智子。 「あいつにとって、俺は、ただの友達なんかじゃ無いんだもんな。それに、俺にとっても …ただの女友達じゃ、ない…」 そうだ。 俺は…うっすらとだが…気づいていた。 他でもない、あかりの想いに。 「そ、そうや…だから、きっと私と居たら、神岸さんに…さみしい思い、させると思うで…」 「…智子…」 俺と智子が一緒にいる時、屋上で二人の時間を過ごしている時、あかりはきっと、いた たまれない気持ちでいるのだろう。 それは分かっている。 分かってはいた、が… 俺は、あえてそれを無視していたんだ。智子との時間を守りたいと願う、俺の身勝手な 気持ちで。 「…私は、大丈夫や。」 視線を水平線へと移しながら、智子は言い放つ。 「べ、別に、みんなに見せびらかすために付きおうてる訳やないし…それに…」 少しだけ顔を伏せる。 「べたべたするなんて…結構…うっとうしいんもんやで…」 「………」 彼女は、気づいているのだろうか。 強がる時、俺から視線を逸らしてしまう自分の癖に… 「…せ、せやから…」 「しょーがねぇなぁ…」 俺は立ち上がり、 きゅっ 言葉を続けようとする彼女を後から抱きしめた。 「!…」 一瞬、軽く息を呑むような声が聞こえたが、それはすぐに安堵の吐息にかわっていった。 「嘘つき。」 「…なんやの…」 「自分で言ったじゃねぇか。今日は一日、素直になるって…」 「だ、だから…」 抱く腕に少しだけ力を入れて、智子の反論を押しとどめる。 「俺の事、うっとおしいか…」 「……」 「こうしているの、嫌か?」 「……」 我ながら意地悪な質問だと思う。…でも、俺はあえてそう聞いてしまう。 ともすれば、すぐ本音を隠してしまう智子。そんな彼女の虚勢の仮面を外すのが、俺の 彼女への付き合いかただ。 隠したい事は、隠せばいい。 話したくない事は、話さなくていい。 でも、 自分自身に嘘をつく事はないと思う。 そして、 その嘘を俺につくのだけはやめて欲しい。 たとえそれが、俺の身勝手な願いだとしても… …俺は、思う。 きっと俺達は、互いの身勝手をぶつけ合い、互いの想いをぶつけ合いながら、少しづつ 本当の自分を見せてゆくんだ。 だから、けんかをしたって、すれ違ったって怖くない。 会って、話して、求め合って…そうやって、分かり合って行ける。 俺と「委員長」が出会ったあの時から、それは変わっていないのだから… 「そんなの…」 俺の腕に、雫が落ちる。 二滴、 三滴。 まるで雪のように。智子の素直な心を覆い隠していた、悲しい雪が溶けるように…雫は、 落ち続けた。 「…きまっとるやろ…」 …ぎゅっ 俺の腕をつかむ智子。 その手はか細く、とてもはかなげだけれど、火照った手のひらの温度とかすかに力の入 った指が、彼女の心を何よりも雄弁に語っている。 「もっと、こうしてたい…ずっと、ずーっと一緒にいて、いつでも…二人で…」 彼女の手が、微かに震え出す。 「…もう、いやや…」 紡ぎだされる言葉に、鳴咽が混じり始める。 「…大事な人に…ずっと、いっしょに居てくれる思た人と…離れ離れになるんは…もっと、 もっと…いっぱい…一緒に、いたいんや…」 しゃくりあげながら、話し続ける智子。そんな彼女を抱きしめる俺の胸に、不思議な感 じが広がる。 熱いような、切ないようなこの感覚 …これは、そう、あの時と同じだ。 降りしきる冷たい雨に打たれ、俺の胸で泣き崩れる彼女の…折れそうなほどか弱い…震 える肩を抱きしめた時と… 「だから、だから…神岸さんにも、そんな気持ちを味あわせたくない、せっかく、友達に、 なれそう、なの…に…」 「…ばーか…」 涙にむせぶ智子の頬を、そっ…と撫でてみる。 熱い、熱い涙。 本当の智子が流した…熱くて、綺麗な、優しい涙… 「あかりは…おれにとっても、大事な女の子だ…まるで、そう…」 俺は、決心した。 「大事な…妹みたいな…」 「…えっ…?」 俺は、そんな智子の涙に…応えたい。 「たしかに、あかりは俺の事を好きなんだろう…幼なじみとして、兄貴として、…ひょっ としたら…男、として…でも、あいつには、あいつを支えてやれる友達がいる。雅史や、 志保や…」 強情っぱりで、気丈で、少しも本音を話してくれなかった委員長。 「友達としての、俺も…いる…」 「…そんな、勝手な…」 「聞いてくれ、智子…」 「………」 でも、本当は…人一倍寂しがりやで、負けず嫌いで、情熱家で、一生懸命自分の怒りや 悲しみを押し殺していた、一人の寂しい女の子… 「俺は、決めたんだ。あかりは俺にとって、大切な女の子だ…でも、俺にとって一番大事 にしたい女の子は…あかりじゃ、ない。」 「………」 「…身勝手でもいい、何を言われたって構わない。俺は俺の正直な気持ちを大事にしたい! みんなの顔色をうかがって、みんなの心を疑って、何もできないようになるくらいだっ たら、」 そんな智子を、そんな彼女を…俺は… 「…誰を傷つける事になってでも。一番大事な人を」 「………」 「おまえだけを…守りたい。」 なんの抵抗も、迷いも無く、俺はそう告げる事が出来た。それは、きっと…智子の涙の 熱さを感じたからだと思う。 あの熱さを感じた時、同時に、智子の心の温度も伝わってきたような気がした。 雪のように冷えた心を溶かす、本当の心の温度…まさに俺が感じたのは、そんな智子の 「心温」だった。 「あ、あほやなぁ…そんな事…わざわざ決めんでもええのに…ほんま…に…あほ…ちゃう …か…」 「ああ、そうかもな…でも、」 抱きしめる腕に力がこもる。 「嘘つきよりは、いい・・・と、思うぜ。」 「………うん…そうかもしれへんな…」 するっ 俺の腕の中で身をひるがえし、智子は俺の胸に顔を押し当てる。 垣間見た智子の表情は、固く閉じた瞳に涙をたたえながら…哀しげに、微笑んでいた。 きゅっ 俺の胴にまわされた智子の腕が、さっき以上に熱をもって俺にしがみつく。 「ねぇ…ええの?私で…ええの?こんな…勝手な私で…」 「…違うよ、智子。」 「えっ?」 「お前じゃなきゃ…駄目だ。」 顔を上げる智子。 すがるような、訴えるような澄んだ瞳が、俺に強く語りかける。 「私を受け止めて」 「私を離さないで」 と… 「ほんま…?」 俺は、それには答えなかった。 ただ、智子を強く抱きしめて…そのやわらかな唇を、想いごと俺の唇でふさいだ。 …ふと、 俺の頬を、何かが滑るようにつたう。 これは、智子の涙なのだろうか。 …いや、ひょっとしたら、それは… 「じゃあな………あかり。」 そう心の中でつぶやいた、俺の涙なのかもしれない。 END